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個人的、社会的

言葉の意味ではなく、主観的なそれを考える、それを見る、それを聞く「意義」
という行為を肯定するような情報によって、行為を何らかの文脈において位置
づけ意味づける事が出来るかという表現における「意味」。


主体が物事に意味、すなわち「つまりそれは私に関係して、私がこうある事を
変えるか?」という問いに対して私が肯定的な解釈を得て、結果として良いと
感じるか?


主体が意味を感じるか?という事が専らのテーマである。まずは何より自分に
関係する事だと思える事が始まりだろう。といっても何から何まで自分に関係
しているのではなく、確かに「このように考えている」自分に対して何か実質
的に関係するものを与えている何かが関係すると思う筈である。


その意味でいうなら、小説などで「自分と同じテーマをもって生きている人物」
が描かれていて、その人物の生き方に共感するところがあるとか、何かしら関
係する状況が描かれているなら自然と「通ずる」と感じるはずである。



特異的な、その人しか経験しないような状況に置かれている者は、周囲と直接
的には関係していない。その状況をどうにかするには間違いなく自分しかいない
という経験は、自分が何とか乗り越えなくてはその状況も変わらないという
当たり前の認識を与える。将来の自分も何も、今その瞬間の自分とそれを乗り越
えた自分とは違うわけで、今の自分にとって必要な事をするのは今の自分だけ
なのだと思うと、それは一層特異的である。



社会的な、或いは歴史的な文脈を考慮する事によって、広い意味で自分の状況を
意味付ける事も出来るかも知れない。場合によっては神話などもそうかも知れな
い。



文脈なしに生きることは、それ自体新しい文脈なのだが、決してそれ以前に無か
ったものではないのかも知れない。文脈はないとはいえ、始まりとなるところを
きちんと定めて語りはじめれば、文脈は出来る。その文脈で生きるという事が
始まる。



主体が意味を感じるか?という問いに答える文脈(その問いに答えるために実際に
生きてみる)では、例えばエゴイスティックな主体はそれ自身に関係ある事を中心
に意味を感じる。それが『直接的な関係』という場合いにおいても、主体の『関心』
こそがもっとも意味を持つ。



まず『関心』の対象があるのかどうかという事である。そこに意味付けの基本がある。
自分の行為に関心を持っている者は、一つ一つの行為を意味づけるだろう。といって
も、自分の行為同士の関連における役割という意味付けである。「この行為をしたら、
別の行為にとって何になって」という情報を感じる事、直観することこそが、主体的
な意味付けである。



その意味付けは社会的なものとは限らない。自分の中の行為の中の関係から行為を意味
づけ、それに従って何かを行ったとしても結果的には社会的に「彼は〇〇をしている」
と解釈される。ただ、そういう風に見ている者がいないとして、社会的な行為には
ならない場合、ただ主体は自分の行為に対する意味付けの中で行為を行っているに
過ぎない。





が、そもそも書くという行為について純粋に自分の中だけで完結しているとは思えない。
主体は書くという行為を確かに自分の中で意味がある者として位置付けているかも知れな
い。けれど、それは読者が『居て』である。自分に説明するように書く為に人に対して
書いているという事だとしても、それでも「誰か」それを読み取れる者を前提するはず
である。



おそらく、その「誰か」というのを自分では意味づけられないような者としている。



そういう想定は、そもそも必要がないようにも思えるが、それでいてその自分が直前まで
いたような『位置』を考えるとそれはリアルであるように思える。要するに、自分は
その位置から踏み出すために書くのである。つまりその自分のいる状況を、「誰か」の
ものとするような、新しい自分になる為の道を模索しているのである。




自分は変化し得る。つまり自分の置かれた状況を説明するような文脈を構成すれば、そこか
ら意味付けというのは始まる。結局、なぜ書くかというと、自分の中での意味付けを社会的
な文脈で捉え直したいからだろう。自分にとって自明なものですら、社会の中では意味が
あるという事を感じたいのだと。書くという行為は個人的な文脈も社会的に共有されている
文脈にする事が出来る可能性がある行為である。




純粋に個人的だということはそもそも無い。「この状況を知る者、知り得る者は自分一人のみ
だ」という事がその時点で真だとしても、それを説明する事は出来る。説明した場合に、「知り
得る者」が自分一人ではなくなるという事において、確かに変化がある。
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書くこと

結局のところ、何の為に、誰の為に書くかという事である。それが結局「分らない」と
いうのが本音である。「誰か」という幻影に向けて書いているというわけではないが、
具体的な「誰か」というイメージがはっきりしないのならば、それはそういう度合いに
意識している事に留まる。


それも『リアル』、あるいは実際的だろうか。


届くか分らない人に向けて書くという事は難しい。そこに居ない人に向けて書くのもそ
れなりに難しい。逆にそこにいないからこそ書ける事もある。でも多分『届けたい人』
に向けて書いているのは本当だ。その『届けたい人』が実在するかどうか、そして気付
いているかどうかなんてことまで考えるとややこしい。



だが具体的に想像しなければ書きものは始まらない。自分に対して書くことにしても、
今の自分にではなく、「いつか読むであろう自分に」宛てている筈である。



この場合、『典型的な』ティピカルな人という概念を浮かべることとはまた違っている。
一般的な他者とか、典型的な人に向けたものではなく、多分宛て先となるような人が漠然
とはしているが、確かに存在として意識されているような、そんな感じなのである。




「みんな」ですらないかも知れない。原理的には誰もが分るように書くとしても、それは
「みんな」ではない。もっとこの具体的な状況を意識して、ブログという手段で書く事
を通じて『読んでもらえる可能性のある人』に対して書くということしか出来ない。



そしてそれはそれでいいのである。距離感というのは難しい。特別なのかそうではないのか
でいえば、色々な度合いがあって長々と文章に付き合ってくれた人に対しては、やはりその
向こうを示そうと思うという意味で特別だし、実際に付き合いのある人に対してもまた別の
示し方で示すだろう。





何がしたくて、そしてそれをするにあたってもっとも誠実な方法は何だろう。




この状況下だからこそ書けるものを書くという事だ。だからこそ、届ける相手というのがはっき
りしない。それでいいのである。

進み切れない

私はそれほど上手く信じたりすることができない。信じようと思っても信じきれないという事が本音なのかも知れない。必死さが本物だとしても、必死であるが故に冷静さが足りない場合もあるかも知れない。信じたいものと信じているものは違う。


結局何を信じるのだろうか?やはりいつも慎重すぎるくらい慎重な進み方しか出来ないのだろうか?


私は信じている。だが信じる私自身を信じ切れていない。

個人的な

個人的にそう思う事はそういうものとして整理しておきたい事があるだろう。何の具体的な根拠もないのだが、自分はそう思って行為するような事。

それはそもそも共感を求めていないし自分以外に有効であるとも思えない。だからと言ってその思考を無視するというわけにはゆかない。


そういう個人の信条の部分はどうしても語り難くなる。ただ、一つの意味として、そういうものの中で動いてゆくという事を選ぶというのも「一歩」には違いない。


それは自分だけが分かる一歩である。逆にいえば他の人が辿ることの出来ない一歩があるという意味でどれほど似ていようがこの一歩の意味を理解出来るのは自分しか認識できないという意味で唯一である。


それが一歩に見えない、動いていないように見えている時点で他人であることは確かだ。それは大きいとか小さいとかではなく、確かに違うという事実なのだろう。大枠で一致しているような事は何の具体性もない。むしろこの個別的状況にとって必要なものが意味があり、自分にとってだけ意味があればいいようなものも存在するのである。


個でしかないような事を悩んでいても仕方ないとも言える。全体にとって有意義な事を追求すべきだという事も十分分かっている。けれど、どうあっても真面目に向き合っているのは自分だけだろうというような事が確かにある以上、個は全体では還元できない。


自分にとって意味のある行為を、それが意味が分からない、他者にはナンセンスに見えるというだけでそれが無意味と判定されるというのなら、むしろ個としてそれに意味を感じるものとしての振る舞いで生きるしかない。というより周りがいくら不自然に思えるとしても、自分にとっては必然性があり自然なのである。


その内容について理解できないからといって内容がないのではない。むしろ他者には価値や意味が理解できないものがこの世にはあるということなのである。


意味や価値が共有できるところで留まっていることが正しく、そうで無いことを言ったりしたりする場合にそれをエゴだというのであれば、それは単に個としての共有不能な事態に入り込んだ事がないというだけである。それは望んでそうするのではない。ただ生きてゆくためにそうしているだけで、それが食い違ってゆくという事態なのである。


確かに他者には意味のない行為を私は意味があると思って行なっている。これは「一般的には意味がない」という事を重々承知しながら書いている。


個の一歩などというものは人類全体にとって意味のあるようなものではない。そして個がずれた方向に動き出したとしても同じく人類全体にとっては何も起きていない事に等しい、というのが大きな見方の弱いところである。


実際のところ自分が感じているズレは多くのことがナンセンスに見えるほどのズレである。逆に自分にとっては他の人がどうでも良くなるような事に対して意味を感じ集中している。


実際それは単純な事で、ある自分だけの出来事によってそうならざるを得なかっただけである。それが自分にとって真実である程度に自分はそこから自然に考えるだろうし、同時に懐疑する。何の事はない。個人が観測できる現象について当てにならないところを見てしまっただけである。


私はもし私と同等の確かさで現象を観測した人がいるのであれば、生きていること自体がナンセンスになるような事を受け入れる事は出来ないが故に、それを否定する方が生を選ぶという事なのだと思う。だからこそそれを肯定するものは本来的には無意味な人生を生きるだけだと思っている。


何の事はない。不確かだからこそ魅力的に見えるものもそれが本当であると思えてしまった者にとっては全く別の意味を持つ。つまり、それを前提した上での行為は、本心では不確かだと思っている者が拒絶したくなるような行為になるのである。確かだと認めてしまったら終わりなのである。


そういう風な経験を書いている人は多分いないだろう。それを理性的に説明できるとしても、どうしてそれが決定的なのか、経験しなければ分からない。それでいて、私が言った事を真に受ける人がいるかも知れないと思うのなら、それを伝えようか伝えまいか判断には迷う。とはいえ一方でどんなに説明しようとも自分で同じ度合いで経験しなければ多分それを受け入れようとも思わないだろうし、受け入れたと思っても、そもそも経験した記憶自体が薄れてゆく中で、その記憶を常に確かだと信じる事はできない、というより脳内の現象として疑う事ができる限り、最終的には物理のように再現可能なものに留まるのが正常な感覚なのである。


そういう意味で言うなら当てにならない個人的な体験に重きを置くスピリチュアルなものは私にとって邪魔でしかない。私はあくまで確かに確認できるものの中で動きたいのであって、信じたいからそう判断するような思考停止で差異に鈍感にはなりたくないのである。



多分私の言いたいことがあるとすればそれくらいなものだろう。

個人的な

単純な話で、確実にこの瞬間にしている事が何らかの「意味」をなすものと分って
いるなら、つまり世界がそういう風に変わらずあるだろうと確信できているなら、
行動に迷いはない。意味をなす行為をすればいい。


だが、世界は同じではない。物理的な法則としては同じかも知れないが、それ以上に
恐らく『多くの人間』が生きてゆくための社会的に分節された物事とその関係の中で
、そのシステムを上手く動かすために、どうしても何らかの法や心理的制約があるよ
うな領域は、そこで私が生活していて、「意味」もその領域内にあるものこそが社会
的な意味であり、その意味の方に関心を向けなければならない。そして、この意味は
物理的法則ほど絶対ではないし、時代によって移り変わる。それでも社会で生きてゆ
く以上、考えていなければならない。


ただ、「意味」とは決して自分を含まない社会が与えるものではない。むしろ自分
が生きて、少なくとも自分で納得して生きてゆくために必要な事が本来的に意味の
ある行為なのだ。自分にとって切実なまでに意味のある事を放棄しなければ存続
し得ないような社会は、基本的に危い。



自分にとって切実なまでに意味のある事、それは果たして個人的な事なのだろうか?
というのも、とにかく自分で何とかしなければならない事を自分で何とかするのは
当然なのであって、社会の生産するものを見て、それが無いと判断される場合、
どうあっても自分の為に自分で何かをするしかないのは明らかなのだ。ただ、それを
社会で了解し、扱いやすく伝える作業があるとするならば、それを伝えようと努力
する事も別にあって構わない。
プロフィール

なんとかさん

Author:なんとかさん
ナンセンスな物語を書くつもりです。リンクフリーです。

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