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背中で語るな

刈り込んだ草を集めてオリエンタルアートを目指していたが数時間で挫折。水面に浮かぶ妖精のようにひねくれた鬼婆から預かった書類を市役所に持っていったら案の定たらい回しだ。大抵の事は、泥船に乗っている。泥船と分かっていても取りに行かないといけないみたいな風潮はどうにかしてほしい。


それからというもの感激のない毎日で、ひたすら観劇している。ほんのりジョーク。


いい加減に脳がとろけ始めたため荒涼とした大地(アスファルト)で再びオリエンタルアートを再開。道行く人に

「それって何の迷惑行為?」

っていちゃもんをつけられたから、

「奴さん、腸が煮え繰り返って、キログラム買いしたよ。隙間風」

と意味不明な受け答えをしておいた。やっぱりかと思ったが、呆れた顔をされた。一番呆れているのはこっちなのに。一体、この世界はいつこんなにアートに厳しくなったのだろう。その鬱憤から生まれた自作のポエムがこれだ。




アルベルト!!君はなんてオートマチックイベントなんだ。
隠されたアーティファクトが軋みながら変形する


アルベルト!!時間はもうない。さあさあ決意を決めろ(重複)!!背負いこんだ
アルベルト弟が呻いている。もうそろそろ、お遊戯の時間だ


アルベルト。アルベルト。


逆さから読むと、トルベルア




いまどき、こんな幼稚なポエムじゃ誰も相手してくれそうにないなと思って、この街でちょっと名の知れた文士に添削を依頼したところ、快く断られた。することがなくなったのでまたオリエンタルアート(貝)を始動。キログラム買いしておいたアサリが役に立つ。

とりあえず何の捻りもなく貝殻状に貝を並べる。その時丁度様子を見にきた師匠に

「アサリを巻貝状に並べるとは工夫したな。感心感心」

と皮肉られた。感心とか言っておいて堂々と踏み潰していきやがった。


「自信作だったのに…」

「自信作だったのに!!」

「自信作だったのに!!!」


この悔しさは表現しても表現し足りない。オリエンタルアートが一向に完成しない代わりに、自作のポエムのネタだけが増えてゆく。
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限り

「限りある」

その中で唯一。

本気になれるというのは、ある意味でそれが
常に唯一であるからだろう。


「限りある」生という条件で実現される可能性は、その条件が変わってしまえば恐らく実現されないだろう。「限りある」生という条件で実現される唯一の可能性、だからこそそれに本気になる。

既に

微小なものは感覚できない。感覚というものの名の限界である。
ただ、微小なものの現れとしてなら、それを確認する事が出来るかも知れない。

そもそも感覚している事自体が、その微小なものの現れなのかも知れない。

現れから、その微小なものを類推するという事しか出来ない。


常に「現れ」ならば、異常さとしてそれは認識される。
その異常さは何から来るのか?


いつの間にか、異常さが気付かれないようになっている。


何かが決定的にプロセスとして進行する。それは既に本気で
何かを認めた瞬間から始まってしまっている。その状況の
ポテンシャルが、プロセスを進行させる。


既に入り込んでいる者として。

特異性の肯定

「それ」と「それでない」ものとの差異を
あくまで表面的に見るなら、構成から眺めるなら
「それ」と「それでない」ものの差異は微小になってゆくのかも知れない。

けれど、「それ」と「それでない」の質の差異は
予想されるよりも大きいことがあり得る。「それ」か「それでない」
もののいずれかが何らかの状況に対して特異的な
振る舞いをしないとも限らないからである。


構成から眺められた「それ」と「それでない」ものは
差異としては微小であり、「それ」と「それでない」ものに
対する『見分け』、或いは『感覚的な差』がなくなる事があったとしても、
事後的に、その「差」が絶望的なものであると確かめられる
事があり得る。


「それ」と「それでない」ものの区別は果たして最初から
あったのだろうか?事後的に確かめられたのではないだろうか?
ある状況下で、「それ」と「それでない」ものの質の差異
が発覚する。特異性を有しているか、否か。


「それ」と「それでない」のどちらが特異的なのかは
状況が教える。


明らかな逸脱は、多分、特異性が為すものなのだろう。
それは一般化し得ない。表面上は同じに見えても、ある状況下で
振る舞いが特異的になってしまう時、それは特異性を有していると言える。



これは確かに質的に異なる。そこで、「それ」と「それでない」
の区別が生まれる。「それ」と「それでない」の表面上の微小な差異
がそれを引き起こしたと推論するのは、因果律で説明しようとする
方法だ。けれど、その微小な差異を、単に「微小」と捉えてしまうのと
、ある状況に対する特異性を持つか否か、と捉えるかではやはり違っている。



特異性とは再現不能なものだろうか?それとも数値的に再現可能だろうか?


再現可能なものとして特異性を持っている場合、何であろうと、特異性を持つ「それ」
と持たない「それでない」は異なる。ある意味で何かの経験の経験可能性があるかないかの
問題なのである。経験してしまうならば、「それ」と「それでない」ものは
明らかに異なってゆく定めにある。



そこからは特異的な生である。お互いに還元不能な生である。孤独とは還元不能な
ものの経験であるだろう。お互いにとってナンセンスであり続ける。


その時、ナンセンスなものが、ナンセンスでない事態が生まれる。明らかな逸脱。それは
特異的な生として、ナンセンスと言われているものを評価するのだ。

特異性の付近で

質的な差異がある。何故かその「値」でしか上手く行かない事。
既に質的に他の「値」とは異なっている。確かにそれは特異性
を持っていると呼んでもいいだろう。


その特異的な「値」は、基本的にその特異的な「値」に収束する
点の行方としてしか視認できない。ある意味で、それは無限の彼方に
垣間見れる何かである。その特異的な「値」を先験的に認めるなら、
対して不思議でもない。けれど、その「値」が確かにあって、
というか、そこに近づいてゆくという「値」として確約されている
のだとすれば、有限の側からでも、その「値」の持つ意味や、
その「値」に近づいているという感覚は持ち得る。そういう意味において、
特異的な「値」はやはり特異的なのである。



無理数という数と有理数という数。


言ってみれば、無理数の中のある「値」の特異性は理解しているのだ。けれど
その全ての内容を、それがある事で可能になる事態を知っている…経験しているとは
思われない。あくまで、その「付近」でそれを経験しているのだ。


ある「値」の持つ特異性は、そこから僅かに逸れるだけでも消滅する場合がある。
上手く、その「値」に収束する点を構成する手段を知っている事が、その
特異性に参与できる条件になる。


有限者としての振る舞いは、言うなればその収束する点として忠実に振る舞えるか
否かにかかっている。もし振る舞えるとすれば、それは「出鱈目」とはまた違った
結果をもたらす。



何故、他ではなく、それなのか?質としての「差異」があるとしか答えようがない。
特異的であるからとしか言いようがない。



「それ」は、未だ訪れていない。けれど、確かに「それ」を他のものと明らかに
異なるものとして示し続けている。それゆえにこそ、「それ」は「それ」と呼ばれる。
そして、「それ」に収束する何かにとっては「それ」は、自らと異なるものでありつつも
いずれ自らが「それ」として振る舞う事になるであろうものとして、自らと切り離せない。



予感として。「それ」は付近にある。

揺れ

事態は「それ」と「それでない」の間で揺れている。
「それ」と言う事も正しくないし、「それでない」ということも正しくない。
「それ」が「それでない」に移り変わっている事態があるのみだろう。

「それ」が「それでない」と呼ばれるようになる事態。

永遠とは、「それ」が「それ」のままである長さを言い表したものである。

「それ」が「それ」でなくなるまで、「それ」は続く。

「それ」が「それ」でなくなる事を受け入れつつも、
「それ」を「それ」としてあらしめようとする意志が確かに働いている。
「それ」を「それ」としてあらしめようとする意志が続く限り、「それ」は「それ」
であり続けるだろう。


「それ」と「それでない」ものの差異は、微小になりながらも
確かに永遠に続く。むしろ「それ」がそれでなくなった時に
永遠が終わるのである。


永遠は無限ではない。無限は訪れない。けれど永遠は訪れ得る。


無限にやって来ない。それは二度とないと言う事である。けれど
無限を仮定している以上、差異が「無限」にあるという事も表現している。
この時、無限とも言える可能性の中で、「それ」が「それ」のままで
あり続けられる。それはある意味で、「私」は「私」であると無期限に主張する
事が可能な事態なのだ。


無限にやって来ない方を選択しようと、永遠の方を選ぼうと、それは内容を
変えない。無限の可能性と、永遠とどちらを選ぶのかである。


無限と永遠は根源的な差異のように思える。


無限とは先験的に決めつける態度の事であり、永遠は決めつけない態度の事である。


どちらを選ぶのかと言われれば、決めつけない態度を選ぶべきなのだろう。
「それ」が「それでない」とならない事態を私は望む。決めつけることなく差異を感覚し続ける。


翻って、「それ」と「それでない」ものとの最初の区別を疑う。


つまり「それ」と「それでない」とは永遠にそうであり、逆にいうと「永遠」にしかそうでない関係である。「永遠」が訪れるなら、「それ」は「それでない」と同一視される。そして、「それ」が「それでない」とならない事態を私が望む限りにおいて、差異は感覚される。永遠を望む限りにおいて、永遠は続く。永遠を望まなくなったとき、永遠は訪れる。


或いは望む望まないに関わらず本当に差異がなくなったとき、永遠は訪れたと言える。しかしそれは「とき」の停止ではないだろうか?


「それ」は「それでない」と同一視できるのか?それとも「それ」は「それでない」と同一視できないのか?


揺れ続けている。

それ自身

それ自身との差異

AはAを前提する限りにおいてAと等しい。
A=Aである。ではAを前提しない場合どうなるのか?
AはAであったものである。


AというものをAを生起させたときに始まる発展から終局
までのプロセスとするなら、Aはどこで中断しているのだろう。
というのも中断しているということが、Aを確認できる条件だからである。

Aを生成させるとき、A=Aは何を意味するのか?


1 AはプロセスとしてAで中断したまま
2 Aはプロセスとして常にAとして特定できる


1の場合のAをそのままの形で前提する。また1は2を必要とする。
何故ならば、Aが特定できないならば、何に対してAと呼んでいるのか
分らなくなるからである。


2の意味でAを捉えてみよう。ここには「同一」はプロセスとして
同一という意味における「自己性」しかない。もし2すらない場合
プロセスはそもそも確認不能である。同一性は常に仮定しなくても
いいが、プロセスとして同一という意味の自己性を仮定するのは
語る上での必要性からである。



1をもう少し分析してみよう。もし2を満たさない1があるとすれば
どうだろう?AはAで中断したままである。だがAを常に特定できる
とは限らない。その時、Aを語ることは一般的に言って不能である。
けれど、確認は出来ないがAがAのままで中断してしていないとは
誰も言えない。それは最早「A」と呼ばれないで、Aを語っている
事態である。どれをAと呼べばいいのか分らないが、Aは確かに
中断したまま、既に他との関わり合いの中で、Aの存在を示し続けている。
この時、プロセスとしてのAは前提するAと同じ意味である。



2の意味で考えてみる事にしよう。Aはプロセスとして常にAとして
特定できる。それは最早生起したときと同じAの姿ではない。この際注意
しなければならないのは、「とき」が、プロセスの展開のある様態を
指すのか、物理的時間を指すのかに関わらず、Aは既に生起したときのAではないという事である。

ただ特殊的な状況で、Aがプロセスとして生起した状態に戻ってくる
という場合には、AはAである。それは反復されたAだろう。


けれど反復をまだ仮定しないで、Aを既に生起したときのAではない
と捉えるなら、Aはプロセスとしてそれ自身との差異を生み出し続ける。
いや差異によってプロセスが展開してしまうと解釈しても良い。


最早「差異」によってプロセスが展開するのか、プロセスが展開すること
によって「差異」が生み出されるのかを問う事は意味がない。


「とき」が加速する。とは、プロセスが展開する事でもあるし
それ自身との「差異」がやってくることでもある。「とき」を加速させる。
とはプロセスを展開させることであるし、それ自身との「差異」を肯定する事である。


物理的時間を基準に「とき」を考えるにしろ、プロセスの展開によって「とき」
を考えるにしろ、「とき」とは差異があるから可能になる。「差異」の消えた
「とき」を生きることは不能である。それは生きるとは別の事態を言い表している。
それは「停止」であり「同じ」という様態の「繰り返し」である。


と言う事はこう問う事も出来る。本来「同じ」とは「差異」を認めない
、感覚できない態度から来ている事態ではないかと。


何かについて「差異」を認めない事は出来る。それは「同じ」を続けようとする。
しかしそれは「差異」が無いという事とは違う。「差異」が感覚可能な
センシビリティーによって、「同じ」は崩れ去ってゆく。そして感覚可能
なものよりももっと多くを感覚する事になるとすれば、最早事態は
どのように展開してゆくか予測不能である。


大まかには同じである。けれど、その大まかに同じという事態に差異を見逃すならば
その後の展開は衝撃として、出来事としてある「とき」はっきりと刻まれることになる。
それは物理的時間という意味だけではなく、何の前触れもなく突然に、という事態も
言い表している。その「とき」、潜在的なプロセスと言うしかない何かを
物理的時間からすると説明不能になりながらもあくまで物理的時間の因果律によって
説明しようとするだろう。けれど、潜在的に展開しているプロセスは
一体前後関係がそもそもあるのだろうかという疑問に囚われる。どこがどのように
展開しているのだろうか?確かなのは、再現可能なプロセスについては
確かに蓄積してゆくと言う事である。けれど、再現不能なあるプロセスについて、
それがいつ何処で始まったのかを考えるなら、もはや突き止めることは不可能だ。


辛うじて、時間が一定の方向に流れるという常識に従っているに過ぎないから、
逆の展開を考えていないだけである。物理的時間についてはそうだろう。
けれど、プロセスの中だけで考えるなら、どちらが先か後かなどと言う事は最早意味がない。
ただ、あるプロセスが他のプロセスを必要とするという関係があるのみである。
だが、もしプロセスが相互に必要とし、必要とされるものなのだとすればどうだろう。
それは物理的時間に現れるものとして捉えるなら、プロセスが他のプロセスを必要と
したという事は、最初に顕在化されたプロセスが後のプロセスを確認させた
という事実であろう。けれど、最終的にその顕在化されたプロセスが
実はその後に確認されたプロセスを必要とすると判明した場合、どちらが先かなどと言う事は
「任意」でしかないだろう。


どちらからでも始められるというのは数学によく表れている。その場合、
一つを認めるという事が、必然的にもう一つを認めるという事に繋がる。



さて、「それ自身との差異」は一体どうなっただろう?この言表は
生成のときと、展開しているいまの間の差異とも言えるし、展開しているいまの別名でもある。
或いは、差異が既に誘導しているのかも知れない。


「それ」をそれと呼ばせないくらいに。

自由

「意味」のシステムにおいて「自由」=「○○」
の同一視は可能なのだろうか?

「自由」がそもそも未規定であることとするなら
「自由」=「○○」について言えることはない。

けれど「自由」がある以上、自由に「自由」を考えるという
プロセスが可能である。それは
「自由」=「○○」と一旦規定し、その生の可能性
を生きる事でもあるし、「自由」を未規定のままに
しておくという事でもある。

前者は「任意」の別名である。もし「自由」が後者
であるとするなら、それだけだとするなら、「自由」とは
まさに未規定だと定義されてしまう。


「自由」=「未規定」であるのだろうか?

「自由」とは何も規定するだけではない。問いを発してみても良い。
規定に対して疑問を発し続けること、その時、「自由」の未規定ではない
「規定から逃れようとする」性質を見出す。

「自由」=「未規定」だとしても、その規定から逃れてしまう
、つまり端的に「規定不能」なのではないだろうか?


それでいて「自由」=「規定不能」と規定する事は何の意味があるだろう?
何も言っていないようで何かは言っている。それでも規定したことにはならない。
それはこういう事である。

「意味」のシステムにおいて、「自由」と「規定不能」を同一視しようとすると
「規定とは何か?」という問いに関わらざるを得なくなるのだ。それは、
規定する間に規定という語を用いていることから来るものである。


規定とはそもそも「可能」であることだとするなら、規定不能という表現は
可能であることが不能な事態であり、規定そのものの意味がなくなるのだ。


それゆえ、「自由」は端的に「規定不能」と言う事と、「自由」=「規定不能」
と同一視する事は、規定を巻き込まないか、規定を巻き込むかという事態の
差異として現れる。不能なものは不能として素直に認めるか、不能なものまで可能と見なそうとする立場か。



ただ結果としては同じである。そもそも「規定」出来るのか?

自由に選ぶこと

「生」を端的に物質的振る舞いに反すること
と理解するなら、「生」は先ずもって生き続けようとすることだろう。
けれど、それが物質的振る舞いと殆ど同様のものとなる時
そこには「生」としての限界によって条件づけられた
振る舞いという、物質的な振る舞いの可能性しかない。


もし「生」がそのすべての可能性を貫くとしたら
それは完全に「自由」な振る舞いの事である。


それは完全に物質から逸脱している。

「「自由」に縛られる」

という囚われに対して、自由意志で「自由」に縛られる生を「選ぼう」。

逆らう

「死」とは何か?

「死」と「○○」

において何と供にそれを語ればよいのだろうか?当然ではあるが最大の差異は「生」である。

けれど、「生」とはそもそも何なのか?それは衰退してはいないか?


「生」とはまだ可能性に満ちている。可能性に満ちているからこそ、「生」を定義することは困難であり、故にその反対である「死」が定まらない。


と考える事は余りに貧弱だろうか?けれど実際そうである。


逆に、「死」は未知なのである。未知である限りにおいて、「生」の可能性が考察される。


「生」=「○○」

という可能性を続けてゆく事。

「死」=「○○」

と先験的に決めて進む事。



これは、確かに「死」を「未知」とするよりは「生」が限定できる。故に不安が少ない。


けれど「未知」のものに対して「未知」であり続けることこそが「可能性」を開くのだとすれば?


けれど、明らかに「進む」ということは、そう思われることに素直になるという事である。



「死」=「強度ゼロ」

と確かに思いたいところもある。それ自体も確かに確認できないという意味で、「未知」に似ている。
だが、そうすると「強度ゼロ」を経験していないということも出来なくなる。ポテンシャルが絶対的なゼロになる瞬間。それを知っているからこそ「死ぬほど辛い」という表現が可能なのではないだろうか?


生命のレベルでポテンシャルが絶対的にゼロということは、それは物質化しているという事である。最早それは必然のままから「逆らえない」という事だ。必然に抗う事が出来る事。そういう風にしてしか「生」は確認できない。



必然に逆らえるだろうか?
プロフィール

なんとかさん

Author:なんとかさん
ナンセンスな物語を書くつもりです。リンクフリーです。

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