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もう少し

私が「私は~」と語り出すとき、あまり名を自分を意識していない場合が多い。私がその名の存在であるのは確かであるが、場合によっては私がその名の存在に没入している時にのみ、私はその名の存在、自分であるとも見る事が出来る。現実問題としては、その名の存在が「私」と言っているに過ぎないと解釈される。

けれど、他でもなく私が自分の先を考えるとき、それは自分が自分の事を考えているという単純な構図ではなく、ただの私が自分の情報を振り返り、自分というものを意識したうえで、私が自らをその自分と同一視して、その自分になり切った上で考えるのでない限り、自分が何か変わったとか、進んだとか捉えることは不可能である。


私は遊離する。良い意味でも悪い意味でも。常に自分を意識していなければいけないとすれば息苦しいし、かといって全く意識していないと身を滅ぼす事になる。ここで、私は遊離しているように見えて、自分が私を選択していると解釈する事の限界があることに気をつけよう。もし自分が私を選んでいるのならば、自分は既に私に没入している。その没入がもし完全ならば、もはやただの私が遊離して述べている事と見分けがつかないのだ。そして、その私が「私はその名の存在である」と語るならば、自分というのは私に置き換わってしまっているのだ。つまり私が、自分の先をつくってしまう事に他ならない。


もし、自分というのがそのようにして、置き換えられながら進んでゆくように見える何かだとするならば?


まあ結局のところ重要なのは、私が何なのか?という事である。そもそも自分が「大切」なのだとしたら、その圏域からは容易に離脱できないし、意識し始めればどちらにせよ「自分」が現れてきてしまう。逆に大切なものが自分を形作っているとも言えるのだから、大切なものを考え始めれば「自分」は浮かび上がってくる。


なかなか、自分として、言いたいことは言い難い状況だけれど、もう少しかな。
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私として

私は私に没入している。


私が私を進めるというのも
変ではあるが、没入した私が
選ぶ何かの先に行くことが
私を進める事である。


私は、、、と言ってもいざ語り出そうとすると何と切り出したら
良いのかよく分からなくなる。

ふつうの話

私は何をすれば良いのだろう?実際問題として、、、

猫と戯れながら考える。一向に出てくる気がしないのは
そもそも既に何かをしているからである。既に何かを
しているのに、その先に何をすればいいかを考えるような
事をやっていると、何かに集中できない。


既に頭の中では、ちょっとした話の雰囲気だけは
出来あがっていて、いつそれを書くのか…だけ。

想像ではなく

私はある名を有した存在である。
私がその名であると肯定するとき、
私はその名において何かを語る
事になる。

その名において語ることには
リミットがある。


その名において語らない事も
可能である。その時、羽目を外した
、リミットを超えた思考が
一応は可能になる。その思考
は、私が出現する身体を別様に
使用した場合に現れる。


「全て」を考慮するなら、私
とその思考はどちらが「全て」で
従属関係はどうなのかは決着
づけられない。

もしその思考を全てだとすると
しても、その思考をしている間
私は現れえないし、私が全てだ
としても、私が私でいようとする
限りにおいて、その思考が現れない
からである。それは互いに補い
合う何かだろう。


その、羽目を外した思考は
過剰な没入を特徴とする。
例えば私が何かを肯定する
と同時に否定もするその度が
その思考においては強く、
強く肯定すると同時に
強く否定するのだ。それは
肯定と否定で差異を際立たせる。


具体的には、何かを肯定する
その先に、その何かを前提した
何かを考慮し始めると同時に、
何かを否定すると同時に、
その何かを肯定する何かを
疑い始める。


リミットがあくまで、自らが
関わっている何かについての
肯定否定に留まっているとすれば
羽目を外す思考は、良きにせよ
悪しきにせよ、差異を先どり
してしまうのだ。ただし、
それは完全に肯定した場合と
完全に否定した場合の決裂
よりは出来事が弱体化されている。


自らが完全に肯定するか
完全に否定するかについて
関わっているが故に慎重なの
だとすれば、羽目を外した
思考は、完全に肯定もしないし
完全に否定もしない、何か
に留まらざるを得ない。


自らが狭い。狭い上に、極端。
だがそれは、自らがそもそも
完全に肯定するか否定するか
に関わっているからであり、
それは即ち、その事象の
肯定、否定の差異が決定的
であるということを感じている
からだろう。狭いからこそ
決断する事が強烈な意味を
持つ。決断によって極端な
変化を受ける。「自ら」は
基本的にそういう地点にしか
発生しない。


もはや、それは普通の私
ではない。私の核となる
部分を述べているのだ。

私のはじまり

そもそもここしばらくの間続いていた
この思考=生は2月5日の

『はじまり』

という記事の

『「もうどうなってもいいやって…」
の流れにまかせるとどういう事を言い出すのか?』

から続いている。ここでは更に


『その感じが「ある」』

という事も述べられているが、それは「リアル」
とも述べられている。そして2月7日の

『進むこと』


においてその「リアル」を語る私
を展開させようとするという事になっている。
同日の

『入り込むということ』

という記事では、

『「一瞬」そんな気がする…を越えて進むとすれば』

という事が語られている。


まとめるなら、

「もうどうなってもいいやって…」というリアルな
感じが「ある」。その「一瞬」を越えて進んだ場合
どうなるのかを実践した場合に、この思考=生
となるのである。


この「リアル」な感じはそれ自体、部分である。
部分としての「何か」に没入し、それに任せて
書くとき、その「何か」は展開される。


そもそもこの「リアル」な感じは、ある状況を
本気にしたところから生成されたプロセスである。
プロセスは、生成されるときただ何かリアル
なものとしてしか存在しない。そのリアリティー
に任せて展開する事は、いつしか部分的な
「何か」をもたらし、全体が「何か」に没入
して語るというよりも、いつの間にか「何か」
それ自体が語っているような状況になる。
実際、部分のポテンシャルを全て引き出すには
「何か」が語るようにならなければいけない。


けれど、「リアル」な感じを「私」と見なした
時点において、実は既に「何か」が語り出している
と言えるのである。そして全体が部分を説明
するとは逆に、部分が全体を説明しようとしている。


部分がそれ自体で振る舞う事を逸脱や脱線と
言い習わすならば、「私」はそもそも逸脱
だろう。


『一瞬』を越えて進むためには私が語らなけれ
ばならない。それでいて、私が語るためには
準備が必要だったのであり、この準備をしなければ
私はナンセンスである。ナンセンスであるから
こそ私は展開してゆかない。私を展開させる
ならば私は殆どボケナスであるだろう。


だが、基本的にはそのボケナスな事を
進めたいが為に、これまでの日記が
あったとしたら、読者は怒るだろうか?

部分

『差異の中の「それ」』という
記事において考えられた「それ」
はいわゆる一つのイデアである。

それは考えている限りにおいて
、あると思われている限りにおいて
実際に、何らかの形で記述され
差異をまき散らす。


ただし、それが実際に「存在」する
という事は保証されていない。
そうではあるにせよ、「存在」した
としたらどのようなものだろうと
感じることは可能である。


「それ」は確実に部分である。
すなわち全体というものがあった
としても、その全体の為に
あるだとか、そういう事を最早
考える事が出来ないほどだ。


部分的な何かは、全体の中で
考えられている限り十全の
意味を持たない。部分的な何かの
可能性を全て展開するならば
全体すらも脅かす。それでいて
全体が無くなってしまえば
もはや存在しなくなるような
何かでもある。


「それ」は思われている限り、
考えられている限りにおいて
記述され得る。全てが「それ」に
なってしまうならば、もはや
「それ」は記述されない。
であるが、「それ」を正しく
展開するには、「それ」であら
なければならない。


部分的な何かはどこか欠けている。
しかし欠けているという事が
一つの可能性である。全体に
無いものは、欠けたものが
十全に展開された場合の
思わぬ結果である。


何かに没入する。それは取りも直さず
部分的な何かになる、なりきる
という事である。


もし全体を捨てて、何かに
没入し切ってしまったとしたら
どうなるのであろうか?それは
既にその公理系で生きている
何かとしての振る舞いになる。


「全体が没入している」と
もはやそれになってしまっている
の境界は確かに存在する。


「全体が没入しているという」
ではあくまで思考上の何かに
過ぎないが、もはやそれになって
しまっているは存在としてそれ
なのである。


その境界の向こうに行くことが
狂気だとするならば、狂気とは
強烈な差異の事である。「存在」
として、「部分」になってしまった
「部分」の可能性に賭けてしまった
何かである。それが「決断」で
あるがゆえに、決断の瞬間は
狂気であると言える。


「断つ」と言う事。決める
ということ。それは常に部分
になる事である。


部分の可能性にどれだけ
賭けられるか?

続いている

「ない」のプロセス。

「ある」はリミットを必要とする。
そのリミットは「ある」に対して
「でない」である。

その「でない」をそれ自体
存在と見なすならば、

『「でない」である』

という再びリミットによって
あらしめられる存在と考える
ことが出来る。


これはつまり「ある」が他の「ある」
にリミットを与えられていると解釈
する方法である。


だが、「でない」は「ある」
に対してプロセスなのではないだろうか?
つまり「でない」はプロセスとして
「続いている」のである。


そして最終的には「である」という
存在すらも、「でない」というプロセスに
リミットを与えられたプロセス
として考える事が出来る。


その時、不変の固定された「ある」
は、プロセスのリミットが変動しない
という条件によって考えられる
理想である。


プロセスを先に見るなら、
その「ある」はリミットが変動しない
という条件によって「発生」
する。逆に、その「ある」から
見ることでプロセスの中から
「ある」ものだけを取り出して
解釈する見方こそが、「存在」
としての世界である。


プロセスを認めるとき、
そのように考えられた
「存在」としての世界は
果たして続いているのだろうか?


「存在」を「ある」として
見続けている限り、続いている
ものを見ているのではない。


「ある」は続いているものの
中で見られる限りにおいて
変動するリミットの中で「発生」
を繰り返しているものにつて
言われる。それは反復だろう。


プロセスの中で同じリミットに
再び舞い戻る事はそれ程容易い
事ではない。けれどあるレベルに
おいて、法則が有効なレベルに
おいて、反復は確かに起る。
むしろ反復されるからこそ
法則は法則のままなのだ。


そして「ある」をそれ自体
何らかの条件が崩れない
限りにおいて確認されるもの
と定義するなら、それは
確かに条件が崩れない限りに
おいて「ある」。そのように
して網目を大きくした場合
にのみ「ある」は有効である。
ただしその場合、実際に「ある」
ものは、「ある」ままではない。


それは限りなくイデア的な
何かになる。そちらを「存在」
とみなすなら、実際に「存在」
するものは何もない、とでも
言えそうである。


それは逆である。むしろ存在
とは何よりこの世界に実際に
ある、正確には続いている
ものだろう。だからこそ
存在をプロセスとして了解する
ことが単なる拡張ではない
確かな意味を持っているのである。

差異のなかの「それ」

「それは○○である」

この規定によって何が定まる
のか?

「それ」が「○○」によって
規定されるとき、肝心の規定
する「○○」の方も意味を
変えてゆく。その時、「それ」
は「○○」の意味変異を受けながら
いわば「○○」としての軌道
を描いてゆく。


それでいて、「それは○○である」
という規定が無期限ではなく
何かが切っ掛けで「それは△△である」
という規定に変わってゆくとしたら。


「それ」の軌道は、差異をもたらし
続ける。

思考の先取り

思考。

「ある」という様態では
捉えられない一つのプロセス。
それが続いているというなら
拡張された意味の存在ではあるだろう。

ただ、限定的にだが「ある」と
言っても良いような「とき」がある。


例えば何かが何かである可能性を
考えている場合。そのとき。

この場合、何かが何かである
という情報が与える結果に
誤りがないかと一旦立ち止まるフェーズ
がある。この「とき」、
そこまで続いている思考は
「ある」ものとして、「その思考」
と名指される。


この際、「何かが何かである」という
情報が真か偽か決定されてから
思考は次のフェーズに進むという
イメージがある。けれど実際上は
思考は「何かが何かである」が
真か偽かを決定する前から
真である可能性と偽である可能性
をともに展開させてしまっている。

さらに言えば、真である可能性
と偽である可能性を供に展開
し切るならば、何かについて
それが「何か」で「ある」と
考えた時点で、そこには
、真である可能性と偽である可能性
の差異が先取りされているのである。


それを理論上の差異と呼ぶにせよ
思考上の差異と呼ぶにせよ、
二つの可能性を考慮することは
展開し切る能力がある分だけ
強烈に感覚される。


想像力が豊かな人物は、既に
様々な可能性を先取りしている。



プロセスが始まるのはある状況を
本気で、つまり真か偽と見なしたとき
である。つまりそこにはその
逆の本気が起こりうるわけであり
それが最大のポテンシャルを与える。


プロセスを展開させるのは最大の
ポテンシャルだけではない。けれど
プロセスがある方向にのみ展開する
かどうかを決するのは、この最大の
ポテンシャルの地点なのである。


「仮定」が仮定として扱われて
いつつも、殆どその可能性しか
考慮されていない場合、その仮定
をいかに本気で考えられるかが
次の推論への重要な要件
である為、その仮定に乗って
進む事は、ほぼそれを受け入れる
という事と限りなく近くなる。


思考としてではなく、私自らを
巻き込む形で何かを語るというのは
他でもなく、私がどのプロセス
の中に入ってゆくかという事を
表明する事でもある。







プロセスについて語っている。

目的を考慮するなら、一つ一つ
テーマを決めて語るべきなのだろう。
けれど「生」について、プロセスの
相互作用の結果、何が先で
何が後とか言ったことは殆ど考慮されていない。


秩序立てて書くという事は、思考の
痕ではない。生の有様でもない。


目的は考慮しなければならないが、
様々な目的が今の形式にさせている。



「そもそも何処から始まったのか?
何処へ行こうというのか?」


プロセスになってしまっている以上、
それは常に展開し切る事なのだ。


少しまとめるなら、思考について
思考している。そしてその中でも
思考が「ある」と呼ばれている
ときを取り出した。その「ある」
は強烈な差異の感覚によって
「ある」と感じられるようなものであり
、それとプロセスを関連付けた。


この思考は思考をプロセスと
比べた「とき」にスタートしている。
実際、思考は独特なプロセスである。
それは差異を予め先取りしている。
しているがゆえに、それが「ある」
と感じられる。「ある」限りに
おいて、それは語られ得る。


つまり、「ある」と感じられなくなる
瞬間まで語るしかないのだ。

実際のところこの思考はあるところで
終わっているが、思考そのもの
は終わっていない。それゆえ
少し先を急いで、展開し切るところまでを
考え始めたというのが蛇足である。

先触れ

生成し、変転してゆくものについて。

何かが「ある」と言われるとき、
他でもなく「それ」があると考えられている。


理念として考えるなら、存在している
いないに関わらず、「それ」を考える事が
可能である。

その際、「それ」は「ある」ではない。
というより、「それ」は存在ではない。
けれど「それ」と呼ぶとき、確かに
「それ」について語っている。


存在ではない「それ」について考え、
「それ」の姿を与えてしまう事は果たして
何を意味するのだろう。


「それ」は生成し、変転してゆくものである。
「それ」は「それ」としての同一性は
有していないが、「それ」としての
自己性は有している。けれど、「それ」は
「○○」から「△△」、そして「××」
へ変転し続け、姿を保っていない。


そんな何かが、「それ」と呼ばれ続ける
事は本来可能だろうか?「それ」は常に
「それ」としてではなく「○○」、「△△」
、「××」と確認される。


「それ」は「○○」としても不全だし
「△△」としても、「××」としても不全だ。

しかしそれは「○○」を存在として
考えるからである。

「○○」を理念として考えた場合
理念が「○○」という「存在」を
要求しない以上、「それ」が「○○」としては
存在していないという事は何も不都合
を生じさせない。むしろ、存在ではない
からこそ、「それ」が「○○」から
「△△」、そして「××」という具合に
永遠に移り変わって行ったとしても
「それ」が理念として可能になる。


「それ」はそれ自体一つの理念だろうか?
それとも「存在」としても可能になるだろうか?
定義を与えている以上「それ」は概念として、
確かに考える事が出来る。


その生成し、変転してゆくものは
言うなれば、「思考」そのものとも言える。



「思考」が差異をもたらすのは、
それが生成し、変転してゆくからである。
それぞれの理念は「思考」の辿る
道の間にある。「思考」は「○○」
であるということも「△△」であることも
「××」であることも一つの過程
としてしか持っていない。言うなれば
「○○」であることも「△△」
であることも「××」であることも
辞めた「それ」が「それ」ではないもの
との差異を確定させる限りにおいて
「それ」と呼ばれる。


「それ」が名を与えられるとき
「それ」は「思考」であることを
辞め、ある概念として振る舞う。


「それ」=「思考」そのものが
理念としての力を有している。
思考を概念としてではなく
理念として、その力に任せてゆくこと。


そしてその理念を理念のまったき
姿において現前化させる事。
その時、世界には強烈な差異が齎される。
けれど、理念の関係において
既に差異は存在している。その関係を
通り抜けるたびに、もたらされる
であろう変貌を予感している。
予感によって感じられるポテンシャル。


予感は差異をポテンシャルとして
感覚している。それは、未だ訪れない
ながらも、微小な思考が先触れ
として既に予告している言語未満の
差異である。


(この言語未満の差異という表現自体、
ナンセンスとセンスの間にある先触れ
なのである)
プロフィール

なんとかさん

Author:なんとかさん
ナンセンスな物語を書くつもりです。リンクフリーです。

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