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引き継いで

「私」と「私でない」

私を存在と見たとき、私というリミット
が外れたプロセスを眺めるなら、それは
「私でない」に入り込む。それは「私」
を引き継ぎながらも「私」を越え、既に
「私でない」に入り込んで、それでも
「わーたーし」と言う何かである。

このとき、その「わーたーし」と言う
地点は「私」とみるか「私でない」と
みるべきか、どちらなのだろう?
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起点

何(なに)でもあって、何(なに)でもない。

そんな著述不能な様子。任意。どうとでも
見れる様子。その何について述べているわけ
でもない、その様子を何かを述べていると
判断する、その働きがなければ何事も
始まらない。

偶然の中で

「何をしたらいいのか?」


制限が無く任意でしかないとき。
それでも偶然に訪れる要素が確かに
ある。この偶然の要素に
絶対的な解釈はない。だからこそ
その偶然の要素を更にその
時々の気分で評価しつつ、
常に脆い、薄い関連の
中で語ってゆく事。


その中で、ある方向性を
生み出してゆく事。ある
事への関心を誘発させる事。

帰還

考える「何か」。

それを「私が何をしたらいいのか?」
という問いにするなら、私は
「私が何をしたらいいのか?」
を考える事になる。


私は何をすればいいのか?


ここに集中させることは
私の状況についての考慮
が必要となる。


遠回りはしたのだが
私は何をすればいいのか?
に帰ってくる。

余分

私が考える「何か」。

それは任意である。
正確には、任意に「何か」
がある何かである事を
考えていい。


考えているというのは
常に「何か」について
の思考である。


「何か」がカタチを成す
前に、「何か」について
語る。「何か」は任意
だけれども、その「何か」
がある何かである場合に
のみ具体的に思考が始まる。


つまり、「何か」という
これから定める対象に
ついて、


「「何か」は「○○」である」

と決めるところから具体的な
思考は始まる。


既に「○○」について考えている
という思考では、その思考全部が
その「○○」ありきの思考
になってしまうが、それを
決める以前の「何か」に戻り


「「何か」は何だろう?」


と考えるところから始まる
とすれば、その思考はその
思考が終わるまで、「何か」
をある何かと定めた思考に
なるが、それが終わったとき
もはやそのある「何か」を
前提しない。

したいこと

「○○さんは何がしたいの?」

と聞かれた時に私は

「「私は何をしたらいいか?」を考え、それに基づいて行動したい」

と答える。

事実と共に

「わたしはわたしでない」

それを一人称の視点から眺めるとき、
「わたし」というのは、語るそばから
「わたし」でなくなってゆく、それでも
「わたし」と言う何かの軌道である。


「わたし」と言う時点で、「わたし」
という何かを想定させるが、「わたし」
はその想定させた何かではないと
表現する為には「わたしはわたしでない」
と言うしかない。


己を脱ぎ捨ててゆくもの。



一人称の語りと、事実の並列。


一人称の語りによって、事実の並列
を述べようとするなら、事実を肯定
し変貌してゆく「わたし」は厳密
に言うなら、「わたし」という時点の
「わたし」であることを辞め、次々
と「わたし」の位置を移してゆく、
だけではなく、「わたし」の在り方
を変えてゆく。


事実は並列に理解されるようであり
ながらも、その事実を肯定してゆく
系列を追うならば、それは語り
として発展するプロセスとなる。

視点、事実

「わたしはわたしでない」

これをそのままで眺めてしまうなら
単なる矛盾である。けれど、それを
プロセスの中で、「わたし」は、
何かを語る為に、「わたし」でないもの
「わたし」であると仮定した
と考えてみる。

そのとき、自らでないものを
「わたし」と仮定して、その自ら
でないものとして振る舞ったときに
「わたし」でないと判断を
を下したという事、或いは
自らでないものが「わたし」
ではないと主張すると言うことならば


「わたしは「わたし」でない」

「「わたし」はわたしでない」


という二つの視点をそなえた

「わたしはわたしでない」

同じことだが、

「「わたし」は「わたし」でない」


が主張として理解される。


例えばここに「俺」、「お前」
が既にあるならば、「俺」と
「お前」について

「俺は「お前」でない」

「お前は「俺」でない」


と言い合う関係だと言える。


その結果として

「「俺」は「お前」でない」

という視点を離れた事実としての
主張が可能になる。



お互いに「わたし」、「わたし」
と言いあうものの中で、両者が
供にお互いを自らと認めないとき
。けれど事実上、それらが同一視
されているような事象があるとしたら…。

それ

わたしでありわたしでないもの。

それはある事について「それはわたしである」
と言いつつ「それはわたしでない」と言う。

つまり、何も言っていない。

この何も言っていない「それ」について、
もしプロセス的に展開してゆくとするなら
「それ」が「何か」であるフェーズの後に
「何か」でなくなるフェーズがやってくる
として、同じ無内容が先験的な定義によって
静的であり何も与えないし奪わないものと
見える一方で、それはプロセスとして経験
されるなら、与えて奪う動的なものである。



追記:

「同時に」という考え方を
取り入れるならば、「それ」は
消極的に無内容であり、
「同時に」という事が出来ない
とすれば、積極的な無内容
となる。


だが、「それ」を語ろうとするとき
プロセスとして展開する以外に
「それ」が続いているということを
明かす事が出来ないのだとすれば、
「同時に」と言うことは、何も
説明したことにならない。何より
「それ」についてどのような順序でやって
くるかが問題だとするなら、実際に
展開してみるまで何も分ったことに
ならないし、安易に「同時に」と
考えてしまう事は、順序を蔑ろに
してしまう。という意味で、「それ」
については、プロセスとして展開
させられて、初めて内容について
何事か判断を下せる。


「それ」について

前回の「それ」について。

「それ」と言った何かを考える時間は
プロセスではあるが、専ら「それ」では
ないものが現れるプロセスである。

続いている事を存在と呼ぶならば、
続いているのは「それ」ではない
から「それ」の存在については
なにも言えない。けれど、「それ」
の不完全な再現として現れる、ある何か
は確かに続いていて、存在と
呼べるだろう。


存在するかしないか決着のつかない
「それ」を考えている間に生じる
数々のプロセス。皮肉な事に、
そのプロセスがあるということは
肯定しなければならない。だから
といって、「それ」の存在については
何も言えないわけであり、「それ」
がそのプロセスを生み出している
という捉え方は、「それ」を存在
するものとした場合であり、「それ」
を考えている間に生み出されるもの
というのは別の捉え方である。
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Author:なんとかさん
ナンセンスな物語を書くつもりです。リンクフリーです。

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