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さるディニーニャ

タイムマシンを反射的に壊してしまって元居た
時空に戻れなくなってしまった高宮は、早々に
白旗を上げた。

「もう、高3だ」

正確には中二だった。泣けてくるほど義務教育だった。


じゃあね。




なんですかこれ。舐めてるんですか?
視聴者は誤魔化されませんよ、幾つになっても
お天道様は味方です。始まりの合図は

「ゴーファイト」



あくる日、マイル戦線を勝ち上がった…あ…競馬の
話は辞めよ。


何でって?


ワイルドカード。



まあ兎に角です、タイムマシンを指一本で修理した
高梨は、高宮に

「高松においで」

って言ったわけですよ。そこには『高橋もいるから』って
いう事でしたので…でしたので。



うわぁ…これはどうしようもないほど馬鈴薯ですね。



安田記念は負けてほしくないですね。



その時高橋は…その時といっても、2000年の2月の
事なんですけどね、まあその高橋は腰痛だったそうです。


負けて欲しくないですね。



何で二度言った?
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まっさらな

勢いが足りない。乗ってみようと思っても習慣から逃れられない。
何となく欠伸をした。したくてしたわけではなく、しといた方が
良いのかなと思ったので。


横溢する意欲。のわりに一向に進展のない現実。
何をしたところで、何もしたことにならない単発性。
今日やった事が、明日に何かを遺すかと言うと
特に残さない。そこで今日は今日で終わっていて、
明日も明日で完結している…そう思ってしまうと

「じゃあ何の為の、意図なんだ?」

と疑問に感じて、もっと何も始まらない…
どころかあらゆる企てを放棄したくなる。


語られるほどの事は起っていない。語るのさえ
飽いてしまった。ただ単に過去の記録を
機械的に確認するだけの無ストーリーを
敢えて語るようなモノ好きは居ない。


「大分昔の話で、それはそれは…」


滔々と語ってやろうと思うのに、全く
と言って良いほど語る事に魅力を感じない。
無内容ではないのに、内容性に乏しい。


「今日も生きた。昨日も生きた。」


それをどうやって繋げれば良いのだろう?


この無ストーリーを語るという、それ自体
不可能に見える事をやっているのは、それ
しかする事が無いからだ。挿し込まれた
真っ平らな無意図によって構成される
時間。



どう表現しようが同じことだ。意欲は
あるが、意図はない。




僕は小説を書こうと思った。だが僕は、
僕のように無内容な登場人物しか思い描けない。
僕が思い描く登場人物は、僕と同じように
存在する。もはやそれは僕がその世界に
入れ子状に挿入されているだけである。
その僕はさらに小説を書いて、その小説には…


「ねえそれって、僕の事を語っている
のと同じなんじゃない?」



小説なのか、自叙伝なのか判別不能な
そんな文。差異があるとすれば、「世界」
が違うと言うことだろうか?僕が
こうあらざるを得ないのは、「世界」が
僕にとって「世界」でしかないからである。


「「世界」が僕にとって、「世界」よりも
多くを意味するような『世界』にいるなら
僕のその『世界』における振る舞いは変わる」



なんて、「世界任せ」なんだろう。僕が
動けば良いだけの事なのに。それが出来ない
から、「世界」でなくて、『世界』では
それが出来るという条件に緩めて思考
しようとしている。それもある種の敗北だろうか?


「世界」と『世界』を取り違えるような事は
しない。だが逆はあり得る。僕にとっての「世界」
が、僕の創造する『世界』を意味するように
なるようなシリアスさが、この「世界」にはある。
創作ですら現実を反映している。その影響が
あまりに強すぎるのだ。


いついかなる時も、この「世界」のことを思考している。


そう。僕が、「世界」を既に前提しているのだ。
もはや「世界」なしには僕の行為も説明出来ない。
僕が創作の中に映し出す「僕」ですら、そうなの
ではないだろうか?「僕」は『世界』を前提
しているのではなく、「世界」を前提しているのでは?



「僕」があり得るとすれば、「世界」ではなく
『世界』に没入している筈だ。『世界』が
与えられていなければ「僕」を考える事は出来ず、
「僕」が与えられていなければ『世界』を
語る視点が無い。観測者なしの『世界』は
単なるシミュレーションでしかなく、ストーリー
はそこには無く、あるとしても歴史くらいだろう。
そんな創られた『世界』の歴史に興味のある
連中は居るのだろうか?対応物を持たない
抽象的な歴史。



大き過ぎて、忙し過ぎる。






僕は目を閉じた。やはり何もする事が無い。
このまま目を閉じていても、面白いことが
浮かぶでもない。何故、小説を書こうと
考えていて、理論ばかりになってしまうのだろう?




ほんの少しだけで良いから、何か別な事が
起ってくれと思っている。


「また世界頼みか」


僕は自分に呆れかえる。起こさなければ
始まらない。だがそこに意図が絡む。意図
的にやることは、意図的にやり続けないと
続かない。




絶望的にまっさらな、テキストエディタ。

リアル

ある条件を本気にした場合と、そうでない場合で
そこから引き出されてくる情報は異なる。

その条件、状況を本気にしたときにプロセス
は生じる。プロセスはその条件下の
もとに展開してゆく。

とはいえ、その条件、状況の認識が
知的に完了しているかというと常には
そうではなく、見切り発車的に、直観
として全体がまず与えられているような
事もある。条件あってのプロセスだが
プロセスが語られてから、その条件が
分るというような事も起こり得る。


条件、状況は、部分、瞬間でしかない
ある状態が「リアル」として認識される
ときには既にその「リアル」を構成
するものとして関係している。


差異との関係でいえば、それぞれの
条件、状況を生きる生は、どうあっても
異なる。条件、状況を生きる生こそが
存在なのだとすれば、むしろ
それぞれが差異である。


一つの条件、状況に対して、一つの
「リアル」がある。それはプロセス
として展開する。常に条件、状況が
他と区別できているとは限らないけれど
、「リアル」の意味するところは
常にその生が条件と状況を受け止め
ている場合にある。


実際のところ条件も状況も、物理的な
ものに限れば常に同じではない。
物理的なものに依存して生じる
プロセスは、物理的な条件が揃わなければ
立ち消えてしまう。けれど、条件、
状況が専ら認識の中にある場合、
物理的な環境が変わろうと、その
条件、状況を「リアル」とした
プロセスは、その条件、状況が
再現されるたび、展開をみせる。


条件、状況を「リアル」とした
プロセスは、その「リアル」の
中でしか展開しない。その「リアル」
の固有性に従って、展開する
ものについては、本気に出来た
場合の情報こそが意味を為す。



イデオロギー的なものと関係している。



もっとも、プロセスは条件、状況
の同一性を仮定していない。プロセス
の展開の中で、条件、状況は変貌し
、プロセスが「そのプロセス」と
呼ばれるまで、展開し続ける。
だからといって、条件、状況を
意図的に変えてしまっては意味がなく、
あくまで、その内部の文法に
したがって展開してゆく事が
必要なのであり、「そのプロセス」
と呼ばれるのは、ひとえにその
内部の文法に自己性があるからである。


ある条件、状況の下に生成した
プロセスが、固有の文法を保ちつつ
展開する。そこに「リアル」があり、
その「リアル」こそが、それ自体で
次の条件、状況を肯定してゆく。

同じ雰囲気

「何か」。確かに「それ」を巡って語っているような事はあると思われます。
その「何か」が分らないからこそ困っているわけでありまして。


一般的に、何かを語る際には、常に「何か」が先にあると思われています。
語るのは「何か」があるからだろうと。でも実際問題として、そんな「何か」
があるかというと、「無い」ときの方が多くて、その際、語ると言っても
何についても語っているわけではないわけでして、単に知っている事を
順不同で並べているに過ぎないわけです。


その順不同の知に、何か全体像が見えるかとか、テーマが見えるかというと
全然そんなことはなくて、要するに全て知っている事を伝えれば、本来は
それで十分とも言えます。けれど、知っている事だけじゃなくて、「そこから
どうしたいか」、「どう考えるのか」が重要となるとき、それは知っている
事からは少しはみ出すわけですから、語ろうとする「何か」は、ときに
自らにも分らないものとして、漠然としたカタチとして現れてきます。



「何か」。きっと「どうしたいか」、「どう考えるのか」なのでしょう、それは
「どうしたいか」、「どう考えるか」がはっきりしない間にすらそこを
巡らざるを得なくなっています。完全に「分らない」とは言えない。けれど
はっきりしない。それを知っているならば迷わず、何かが行える。むしろ
分らないところが大きいから、何とも言えない、停滞する。



何がしたいか、何を考えているか。それは知っているようで、知ってはいない。
仮に知っていたとしても、カタチだけ知っていて、それがどう呼ばれ、名指され
、行為されるものなのかを知らない。そんな「モノ」があります。


しかしながら、「それ」を既に知っていたなら、「それ」を考えたり、
「それ」をしたいと思わないのかも知れません。分らないからこそやってみたい。



既に知っていることの中には居ません。ただし、知らない事を組み合わせて
適当に任意の対象を語るのでもありません。知らないとは言いつつも、ある
カタチが確かに私を何かに差し向け、思考させて止みません。



最初の文と後の文の違いをはっきりさせるために言えば、何か知っている事を
語っているわけではないのです。何か知っている事があるから語るのではなく、
「どうしたいか」、「どう考えるか」がある程度輪郭を持ち始めているから
それについて語ろうとするのです。それも知と言えば知の一種でしょうけれど、
あくまでそれは「知」として語るものではありません。



その「何か」は、きっと始めなければ現れようがないのです。だがどうやって、
それは始まるのでしょう?何と何の関連の中に、それは見いだせるのでしょう?



ただ、今は立っているだけです。同じ雰囲気のまま。

虚しさの奏でる音

言葉が虚しくなる。それは僕のものじゃない。
言葉が過剰に意味する。それも僕のものじゃない。


言葉の世界に入り込まない。


けれど、僕でさえ、僕という言葉を発しない限りは
何処にも居ないようであり。


じゃあ、それは何なのだろう?


「発する」という行為になる前の、この語を帯びない
、言葉で説明されない、語と語の関係は。ただ、関係
を知っている。その知が、「僕」という主語を通して
その関係を語るのだ。だから僕は、一つの知でしかない。


しかし、知は、顕在化されると次の知を析出させる。だから
傍目には、僕が何かを語って、次に何かを語るという風に
見える。


だけど、僕はもう語ることがない。


「語ることがない」と判断するのは、僕の状況を一旦
反省した、別の機能だ。その機能があるから僕に、知
に、「語ることがない」という当面の「知」が加えられ
、僕はもう語ることがないと語れる。逆説的に
その当面の「知」を前提として、新たに析出する
ものを僕は語る事が出来る。



出来るけれど。


僕は既に、「僕」と言う事に抵抗を感じている。その態度は
、知としての僕とは違っていて、反省によって最早個人的な知
でしかないものを説明する為に「僕」と言う事がナンセンス
だと判断した後に、その当面の知が僕に加えられ、ナンセンスと
知りつつそれを行う事が出来ないという、「僕」の情的な
面を表現している。


でも、それを別の方向から眺めるなら、知が「僕」と言うことは
ナンセンスではなく単に不合理であり、知が不合理な事が行えない
という事態を「僕」によって表現すると、「僕が抵抗を感じている」
という情的な面として見えてしまうというだけなのではないだろうか?



「僕」は、「僕」の知る関係の中で、その中から推論を発する。
であるが故に、「僕」という人格が保証される。つまり、「僕」
の情的なものも、「僕」の個性も、「僕」の知る関係の中から、
いや「僕」と言う「知」から導き出せるものであり、「僕」の
振る舞いは一般性を保ち、「僕」という存在が了解される。



こう見られた僕、いや「僕」には、もう特性などありはしない。
僕に独創性があるとすれば、僕が次に何を「知るのか」であり、
そればっかりは、順序が定まっているわけではないから、僕
として振る舞う事が必要になる。僕として振る舞うと言っても
僕は一々、「僕は○○だ」と自分に言うわけでもないから、
僕は僕自身から遊離する。「僕」と言わなくなる瞬間に、
それでも僕はあるのだろうか?



僕は、一つの条件でしかない。


だから、ある言葉は僕のものじゃない。その言葉を僕の
ものにしてしまうなら、僕は僕の条件を超えるものの
中にいて僕を語る事になる。これは僕じゃない。けれど、
僕が僕の条件から、導き出せるものを選んだとしても
より多く意味するものとしてそれを感じなければ、つまり
過剰に捉えなければ、言葉には内容が無く、虚しい。



僕を超えずに、それでいて僕を超える。



僕は不在の中から立ち現れてくる。「僕」と言わないけれど
「僕」の何かは続いていて、それが再び、僕という条件を
新たな知とともに再構成する。



でもそれが何だって言うのだろう。僕は専ら、知でしかない。
そんなの僕の上澄みでしかない。「僕」と言わない時の
「僕」の何かこそが重要なのだ。この、、、。

消去

展開がおかしかったので、物語を一つ消しました。
長く書こうとすると、自分で考えていたのを忘れて
しまうというのはあって…


実際にその状況にあるなら考えやすいのですが、
イメージが貧弱なので、馴染みの薄い世界の事を
考えているようで、中々先が考えられません。

話にならない話

例えば、公道を駆け回る少年のように、その行為の意味を知らない
純真さが今の僕にも少しは残っているのだとしたら、多分、空を
自由に飛びたいと言うだろうか?飛んでいる鳥は実は懸命に羽ばたいて
いるなどという大人びた知識は、きっと自由を奇妙なものにして
しまう。重力に逆らうような自由は、重力のないところの自由は
きっと「飛ぼう」とする気力さえ失わせてしまう。


飛べない事など分っている。その事実があるからこそ意味のある
「飛びたい」という願望。自由でない事など分っている。その
事実があるからこそニュアンスを獲得する「自由に」という副詞。


「だけど、君の言う「少年」は、周りから抑えられているという
状況にある「少年」をイメージしていないだろうか?最初から
自由な状況で育った「少年」は飛びたいとすら思わないのでは?」


僕もそんな事は承知していて、友人も僕が話を始める為にその
たとえ話をしたという事をきっと承知してくれているのだろう。
というか、一つの型を与えない限り、あんまりにも自由過ぎて
「話」にならないのだ。僕は言う。


「僕はたとえ話をする。そうでもしないと始めようがないからだ。
でも確かに、僕は「公道を駆け回る」という行為を、大人の視点で
非常にあり得ないものだと見ている。そんな純真さを、危いと
思いつつも羨ましいと思っているのは事実だ」


「それを純真さと言うのかどうかは置いておくとして、確かに
行為の意味を知らないから出来る事がある。行為の結果がどう
なるかなんて事を延々と考え続けると何も出来なくなる」


分かり切った事だ。このたとえ話から何も始まらないという
事など。だから、始まらないと分っていても、分らないように
して始められるだけ始めてみる。


「僕は、切り離された断片としての「少年」のあり方に
共感するところが多いよ。意味は分からなくても、そこから
始めるんだ。きっと「少年」は、自らがした行為を説明
出来ない。したくてしたのだろう」


「君も断片化する」


「そうとも」

姿をカエル

思考。

と読まれるものがあるのかも知れない。「思考」として読まれなければ
単なる悪ふざけ。真面目と不真面目のそのどちらも許すような文がある
として、真面目に読まれたときと、不真面目に捉えられたときでは、
その内容が異なるようなとき、評価する者によって価値があったり
なかったりするのだとしたら、それは「文」に原因があるのだろうか?
それとも評価する者の方に原因があるのだろうか?


「文」の性質だとする。評価者の性質だとする。


「同じ」評価者が一度目と二度目で評価を変える。ここでも「同じ」
という事が仮定されている。「同じ」などという事は無く、一度目と
二度目では評価者自身も変化している、それどころか読む間に変化
しているのだとすれば、評価者は真面目と不真面目の間を行ったり
来たりするのではないだろうか?


評価者が自らを「同じ」と考えるなら、評価は一度きりで構わない。
けれど、評価者自身が、「同じ」で無いと考えるなら、評価は常に
何度も「同じ」、固定された文を巡って、為されてゆくだろう。


「文」は、同じ記号に固定されている。けれど、読まれ方によって
少なくとも二つの解釈を許すなら、それは不完全な「文」だろうか?

それがいい

同一性を仮定しない中で、それでも
「私は何をすればいいか?」という
問いは繰り返される。


その度ごとに定義され直す、「私」が
その度に、「私は何をすればいいか?」
と同じ問いを発する。違うものによる
同じ問い。


確かに普遍的な事だ。


世界が、私が変わり続けると分っていて
それでも「何をするべきか」を考え続けて
いると言う現象はどうあっても繰り
返される。それに対して、常に同じ
回答であるとは限らないが、ある
特異的な「私」が、「何をするべきか」
に対して、普遍的な事のレベルで
答える。


「何をするべきか?」は確かに私を
その圏域に留めおく。それはテーマ
なのだ。言うなれば、「何をするべきか」
のテーマで変わり続けている私
と見る事も出来る。


「何をするべきか?」


そもそも、それは私の、変貌してゆく
運動を構成してはいないだろうか?私の
生全体が、「何をするべきか?」に
ついて答える為に運動をしている
のだとすれば、そこにはどこまでも
同じ一つのテーマが流れている。


確かに答えは無いのだろう。無数に
あるのだろう。


その無数の中の一つを選ぶ。任意
だからこそ、意志がそれに向かう
という事がいかに、私にとって意味
のある事だろうか。



何故それなのか?それがいいと思ったから。
それはとても意味のある事だ。

普遍

私の同一性と世界の同一性を仮定しないとき。
それでも私という自己とその世界が続くとして。

私が変化し、世界が変化する。分かり易く言えば
そのような状況を思い描くことだ。それは当たり
前に経験している。


私が変化するという事は、世界が変化しなかった
としても私に見える世界は異なってゆくという事
であり、世界が変化するということは、私が変化
しなくても、私が世界における意味が変わるとい
う事である。


私は「私」と言う度に、「私」を定義し直し、
また世界についても常に見直しを迫られる。
私が「私」と言って、「私」の世界を見直し
終わったときには既に、「私」は新たな私
であり、世界も違う世界になっている。


私の変化による影響によって世界の見かけ、
評価が変わるのに、評価しようとする世界
も変わってゆく。


そんな状況で、確かに変わらないものは
あって、むしろそれは構造として理解
される。だが、構造ですら同一性を仮定
しなければ、精々、移り変わってゆく
リミットとしてしか存在しない。


全ては動的に移り変わってゆく。移りゆく
リミットと供に。


自己性と、「それ」と呼ぶ事を辞めるなら
この世には何もない、と見る事も出来る。
「私」と言うたびに、定義し直されるような
私など、「私」と呼ばなければ、そこには
何もないのだ。というより、次々と
違うものが現れていると言っても良い。
世界すら、世界と呼ぶから、続いている
と想像するが、少しも同じではない全体
なのである。


だがそれでも、「私」と言うたびに定義
し直されるような系列と、変わり続ける
全体という定義を用いさえすれば、やはり
自己と「それ」と呼ぶことが出来るような
ものの状況は考えられるのである。



要するに、そのような状況の中で、それでも
言い得る普遍的な事があるかということ
なのだ。


私が変化し、印象が変わるとしても、そこに
確かにある時間、存在し続ける「それ」を
見る事は出来るだろう。「それ」を「それ」
として見る事は、ある私の側の「それ」と
見る限界と「それ」が「それ」を保っている
限界を有するにせよ、私とそれの関係で
いることはある時間可能である。時には
「それ」はまだ「それ」であるのに私が
もう「それ」ではないと判断してしまったり
、「それ」ではないのに、まだ「それ」
と見てしまう私の側の働きがあるにせよ
、私とそれの関係は、物質的な事象に
限れば比較的安定的であり、持続する。


「それ」の定義に私が介入していない。
だから、可能なのである。「それ」は
私が「それ」を認識出来ようが出来まい
が、私が変化してゆこうが、「それ」の
定義をその度に辿り、「それ」を毎回
違うように認識していたとしても、「それ」
には違いないのである。


いつしか「それ」が私が実際に認識する
しないに関わらず続いているだろうと
思われるようにもなる。他者から見た
私も、そのように思われるようになる。



だが現実は喰い違う。



違うけれど、変わらないものがどこかに無いか
探し求めるようになる。結果的には同一性
を仮定した世界を構想する。それは単純な
同じ、よりももっと価値のある驚きを
秘めた「同じ」、反復なのだろう。差異の
中で反復し続けている何かはそれだけで
奇跡的なものだ。どうして、ありとあらゆる
ものが変化している中で、「変わらないな」
と言えるのだろう?



確かに変わらない。変わらないように
繰り返しているのだから。論理を固定し、
公理を固定し、繰り返し演算し続ける
のだから。



それでも、「変わらない」と思うその時、
それを見る方は見方を変えている筈なのに、
「変わらない」と言うのは、きっと同一性
を仮定していた時と、そうでない時では
意味合いが違うのだろう。当たり前と
思うか、凄いことだと思うか?


だが、もっと本当の驚きは、努めて
そうしているから繰り返されること
よりも、全く違う事を考えていて
偶然に同じところに辿り着いたという
事にあると思われる。そこにこそ、
一つの普遍的な事があると言える。



そしてその「同じ」は、違う姿を
しているもの同士の関係なのだろう。


違う世界の、違う誰かが、同じ。
プロフィール

なんとかさん

Author:なんとかさん
ナンセンスな物語を書くつもりです。リンクフリーです。

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