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私という君

『大きいもの小さいもの。整然としている』


なんとなく整理していたら見つかった昔のノート。
走り書き、メモ、何かの図。


今となっては読み取れない暗号となってしまった
それらは、確かにそれを使っていた当時の私が
いたであろう意味世界では何らかの位置を占め
役割を持っていた。意味があった。


暗号を読み解いたとしても、その内容が今の
私にも何かを訴えるものになるかどうかも分からない。


むしろ私は、その暗号を今の私にとって意味
あるように読もうとする。暗号は文脈を離れ
孤立した一つのテーゼとなる。そのテーゼが
どういう状況で真であるか?今も変わらず真なのか?


それを解読し、解釈しうる、注釈を加え得る
私はもういないのだろうか?それとも今でも
私は注釈者となり得るのだろうか?



『スニーカーのような、気楽さ。いつまでも』


「君はいないのに、君はずっといるかのように語っているね」



それは、私が本当に私を認識した時だった。
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ひとこと

私は「自分がない」という自分を持っている。

自分で

束縛がないという意味ではなく、任意の
中で自分で決めるという自由でありたい。

公正

いたりあったりすると(都合の)良いもの。

それが「いない、ない」とはっきりする
まで、それが「いる、ある」と判断して
しまうようなもの。


「いない、ない」とも「いる、ある」
とも言えないが故に、都合の良い
という理由で「いる、ある」で
のみ判断を行うならば、正しくはない。


「いる、ある」が考えられるなら
どうじに「いない、ない」も考え
られなければ公正とは言えない。

判断

してはいけないという事を肯定できる場合。

それは禁止というよりむしろ判断である。


追記:それでも、してもいいということを否定
することも必要ではある。

肯定

それ自体として追求されること、目的があるだろうか?
あるとかないとかを言う為には、まず追究されなくては
ならない。目的は追究されると同時に、追求される。


目的が無くなった、という生においても、それでも
尚続く生において何をすべきか?という問いを発する
事が出来る。


むしろ本来的に目的のない状況で、それでも何を
するかという事は、その状況を了解するものに
とっては一つの興味になり得る。


その状況を了解する他者がいるかどうかは別
にしても、少なくとも了解している己はいる。
その己が思考する事、起こそうとすること、
それを認められるのは己自身でしかない。


むしろ意味は、了解する己にとって意味
あることの周りに集まる。その状況を
了解して尚、ある一定の判断が行われる
のであれば、その判断をこそ重視すべきである。


倫理的なものが思考されるのはその地点に
おいてである。その判断と、倫理を通して
見た判断を引き比べ、そもそもの「善」
を考える。何が『良い』のかという事
である。


どういう前提が成り立っている状況で
『良い』が言われるのかを考える。


限界的な状況では『良い』はそれぞれの
視点で異なる。何にとって『良い』のか?



結局、その何にとってにおける「何」が
全体であったり、集団だったり、己だったり
になったりするわけだが、常に何かを
選び取っている。その何かを固定すべき
なのかどうかも考え、『結局』のところ
己が何を肯定するのかが関係してくる。



「肯定」というのがとても基本的な
判断で、己が「肯定」したからと言って
どんな視点からも「良い」とは限らない
が、少なくとも「己」が肯定できない
ことは、無理にでも出来るわけではない。
むしろ、肯定『できない』事を肯定する
する「己」は己ではない。


もっとも出来ないというのが思い込み
だという場合もあるだろう。しかしながら
そう思い込んでいる「己」はやはり
思い込んでいるからその「己」である
のであって、思い込みが無くなれば
もはや同じ「己」ではない。



それでもその思い込みが消えてゆく
過程は当の思い込んでいる「己」が
納得する形で行われるのであって、
「己」は同じ姿ではないが、思い込んだ
「己」が受け入れたという事には変わりない。
それは、己が肯定し得る事だったのかも
知れないという可能性もある。


その思い込みではなく、本来的に「己」
というものを成り立たせている原初的な
肯定、ないし否定は無いだろうか?その
肯定、否定があるからこそ、あることが
「肯定」出来ないような判断。



例えば極端な例では「苦痛」を肯定する
事は出来ない。それは生理的なものだが
「苦痛」は、肯定できないものを無理に
肯定させられようとするような場合にも
生じる。「苦痛」が肯定されるなら、
肯定できないものも肯定できるのかも
知れない。しかし、「苦痛」を「苦痛」
として受けている「己」はいるのであって
仮に「苦痛」がなくなったとしても、
逆に肯定できない事を肯定させられる
ような状況を「苦痛」と思うように、
「己」を構成し直すかも知れない。
というより、それを「苦痛」と思う
判断する「己」は確かにいるのである。


その「判断」の結果が「己」を形
づくっている。「己」は肯定した
ものの形である。肯定が先立つ。

まつ

したいことは何だろう?


とりあえず、したいと思える事が見つかるまで
待つ事。「待つ」。それ自体もしたいことでは
ある。

いない

いないものをいないと分っている私。

知かどうかは分からないが、何らかの
基準で「いない」と判断し、「いない」
を了解している私。


少なくとも「いない」は了解している。

うごき

安心したい。知りたい。


安心したいが為に知りたいのでもない。
純粋に「知りたい」。そして安心したい。

厳然としたリミット

通時態、共時態。

歴史、構造。


プロセスのフェーズ。フェーズを存在としてあらしめるリミットと
そのリミット自体の移動。


自己について語るとき、それはフェーズを語るのだろうか?
それとも、フェーズを成り立たせるリミットが移動する事に
ついて語るのだろうか?あるいは、その両者か?


フェーズは物理的な時間が幾ら経過しようとも、リミットに
関係する項を移動させなければ、フェーズとしてそのまま
同じ事象が成り立ち続ける。ある意味で停止した「とき」で
ある。その「とき」を動かすものがあるのは、専らリミット
に関係する項の移動による、リミット自体の移動、それによる
フェーズとしての差異、「次」の肯定という手順を踏むことによってである。


自己は、物理的な時間で見るならフェーズとしてそれを前提し、
それを語るその語りが終わる『前に』、既に「次」が起こっている。
しかし物理的な時間に囚われずに見るなら、自己はある
フェーズにある「私」であり、『次』にある「私」ではない。
フェーズを語り終え、フェーズのリミットと供にフェーズ
を語る時になってようやく、『次』のフェーズとそれを語る
「私」との交代劇が自己において行われる。この時、
「私」と「私」の間にある差異をそれ自体として肯定する
にはそもそも自己がフェーズにある「私」なのではなく
、そして「私」はそのフェーズを語る為にあるものではなく、
むしろプロセスとしての自己を語る為にあると判断する
事が必要となる。


自己のフェーズとして、語り終えられた存在は、そもそも
プロセスの常に過渡的な状態だと考えられるならば、存在
の名に値するものだろうか?結果的に可能な事の中で思考し
リミットを移動させてゆくプロセスにとって、その存在は
何らかのかたちで一時的でしかない。フェーズ自体が有限
の内容しか持たないようなフェーズしか語られないが、
そのようなフェーズは語りを前提とするなら存続しない。


もし、不変な存在とみなせるような何者かがあるとすれば
それは語り得ないもの、原理的に不可能な何かをリミット
として抱える、あるフェーズの中にある「私」なのかも
知れない。その「私」は語り得ない事を語ろうとする。




語っても語ったことにならない。ゆえに終わる事のない。
プロフィール

なんとかさん

Author:なんとかさん
ナンセンスな物語を書くつもりです。リンクフリーです。

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