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重要な事

プロセスであるにしても、どうなるかは
結局のところ予測は出来ない。見える
ものについて、プロセスとして考える
事も大事だが、今実際に起こっている事
に向き合う。

それがやはり重要で。
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究極

現実には、存在するものの中で存在が確認
出来るものは、何らかの事態の成立と関わって
いて、少なくともプロセスのあるフェーズ
として存在するものは、その存在から
次の存在へと移り変わってゆく。


存在だけに囚われていると、プロセスを
見逃してしまう。プロセスの成立に、
存在が関わっているかどうかは不明で
あり、それが「ある」から何かが生じるのか
何かがプロセスとして展開するから
存在が確認されるのかは分からない。


あってもなくても変わらないようなものを
除いた、実際に起こっている現象を眺める
なら、プロセスしかないと言える。それゆえ
存在は期限付きで、期限付きであるがゆえに
それに関係する存在もまた期限付きであらざる
を得なくなる。あってもなくても変わらない
ものは、その存在にプロセスに関与しないの
だから、仮にプロセスのあるときに、あっても
なくても変わらないものが紛れ込んだ場合でも
誰もそれに気づかない。実際そうなってしまった
場合、そのプロセスは「消えた」という事なのである。


そしてあるプロセスが「消えた」という事が
プロセス全体の中で、影響しないわけがない
から、その、あってもなくても同じものと
なったプロセスの消失が(突然、連続性が無い)
異常であるなら、それに応じた突然の
変化が見られる。そうではなく、物理的
連続性を保っている、或いは起こり得る事
ならば、物理現象の出来事「0」「∞」として
説明される。



フェーズからフェーズの移行、存在から存在
への移行は、常に連続的ではないし、知に
よって突然に移る場合もある。だが一つの
プロセスが「消失」する場合は、明らかな
断絶がある。

あんまりいみがない

あってもなくても同じようなものについて
、「ある」と思って思考する場合と、「ない」
と割り切って無駄な思考をしない場合とが
ある。


「ある」と思うとき、確かに主観的には
何らかの影響が加わる。ただしその影響は
「ある」と思うから生じるのであって、
「ある」から生じるのではない。


「ない」と割り切るとき。無駄な思考を
しなくて済むというメリットがある。



「ある」と思うのは何故だろうかと少し
考えてみると、「ある」と何となく良い
気がするからではないだろうか。逆に
「ある」という事が何となく良くない
場合、「ある」と思うのは負担である。
少なくとも、「ある」と思うメリットが
ないならば、余計な思考をしなくて済む
「ない」と割り切った方が賢明ではある。



ただし、「ある」、「ない」を決定しない
というのが「厳密」さを要求する者にとって
は正しいとは言える。

存在するならば(追記)

何かの存在は、事態の成立に関わっている。

全ての存在について、それが何らかの事態の
成立に関わっている。


全ての事態に対して全く無関係に、ただ存在する
ような何かについて、それは存在していると
言えるだろうか?だが、存在する限りにおいて、
それは常に「何か」であり、「何か」としての
存在性を持っている。その存在性が実際に実現
されている、それは確かに一つの事態である。


「何もない」について、それは何の存在性も
なく、何も実現されていない。それもまた
一つの存在のように扱うとしたら、それは
ただ、存在は常に「何か」で、何らかの
存在性を持ち、それを実現しているという
事が自明であるからなのだろう。その自明さ
と比べて、「何もない」が際立っている
に過ぎないから、それは異質であり、あたかも
それが存在するように見えるが、本当に
「何もない」を満たすような存在物がある
かと言われれば、イデア的に考えられている
だけの「空白」でしかないのではないだろうか?


イデア的に考えられ、考えた主体に何かを与え
、失わせ、その主体が与えられたものによって
、あるいは失わされた為に、何かを起こすとき、
イデアのイデアとしての影響はある。が、イデア
は存在するとは言わない。その存在性が実現
されているとは言えないからである。あくまで
『考えられた』事によって主体に与える
影響があるだけである。考えられないとしても
それとして確かに影響を与えているならば、
それは存在すると言えるかも知れない。


現実的には、「何か」はある。物理的にも
何もない真空にも「何か」がある。ただし
膨張し続ける宇宙のその向こう、そこに
ついては不明である。



いま、事態に関して全く無な存在というものを
考えてみる。存在性はあるが、実現される過程
で結局打ち消し合うか、妨げ合うかして何も
実現されないもの。確かにそういうものについて
は、その妨げるというところに介入して、
何かを強引に展開させる事も可能かも知れない。
しかし、その存在は介入を受け付けるという
意味で、何かと何らかの関係を持ち、そういう
関係が既に実現されている。そうではなく、関係
も実現されないような、全く「無」な存在。


ある空間領域を「占める」だけ。影響もなければ
与えることも出来ない。だから厳密には、物理的
干渉すらない。つまりあってもなくても同じもの。



あっても、なくても同じもの。そういうものに
ついては、それが思考するかとか、見ているか
とか、永遠に分らない。思考している、見ている
、そういう事を分かる人も、原理的には居ない。
何故なら干渉しないからである。



(追記)


物理では「質量」を持つという事が、空間に
対して影響を与える。そういう意味で言えば
「ダークマター」は存在する。


あってもなくても同じものは、だから質量
すらない。存在性があって、打ち消し合う
というより、実現を妨げ合うとして、
それがエネルギーとして保存されて
いるとすれば、一見すると何もなくても
「質量」として観測されるかも知れない。



その質量の塊について、存在性のポテンシャル
について、何が言えるか?



或いは、ある存在性をもつものがあるとすれば
それが質量として観測される、という命題が
常に真なら、あってもなくても同じものは
存在性が全くないという事になる。それこそ「無」
だろう。



追記:

物理を少し勉強していて、ニュートリノのような
中性微子、質量ゼロと考えられている光子のような
粒子について、どのように考えてゆくべきか
かなり微妙な問題となってきます。


ウィキペディアを見る限りですが、光子の質量
も疑問が残っているそうです。


「ある存在性をもつものがあるとすればそれが
質量として観測される」


負の質量についても理論的に考えられるようですが、
あったとしても観測できるか、あとどのような条件
で観測したことになるのか、色々興味深いです。


正にせよ負にせよ、それはゼロではありません。
光子のように質量がゼロで、エネルギーだけの
存在があるとすれば、仮説の負のエネルギーも
という感じで、観測されたものについては存在
として認めればいいのだと思いますが、波で
ありエネルギーのようなものも確かにあると
言えばありそうです。


波は物質ではありません。しかしながら確かに
この世界には波というものが確認されます。
音は確かに実在です。仮に何も無かったと
しても、音がある場合は何かの影響を与えて
います。ですが音の場合はエネルギーゼロ
ではないです。


「ある存在性をもつものがあるとすればそれが
質量、ないしエネルギーとして観測される」


ならば、多分そうなのですが、質量もエネルギー
もないようなものは多分観測されないか、あった
としても「ゼロ」となって観測されている事に
ならないはずです。

存在ー共時(訂正あり)

存在する。

項として加えられ、「その項が存在するならば○○である」
という(訂正)真なる命題がある場合、「○○である」という事が真になる状態。
存在するという事態がそのまま続くかどうかは述べられていないが
存在する限りにおいて「○○である」は常に真である。

いくつかの命題が真という状況が共時的に得られる。
その共時的に得られた、得られているその様子こそが
その項の存在を言い表す。

現実へ

移り変わってゆくものの中で、共時態として
理解される言語の構造は、項と項の関係が
言語と言語の外にあるものによって規定
されていて、規定されている以上、その
構造を維持する。


項と項には当然「差異」がある。その「差異」
がどのようなものかは、項と項がどんな関係
にあるか、或いはその「差異」は具体的に
どのようなものか具体例を通じて示されて
ゆく。


項がそもそも具体的な対象、具体的な
事柄、概念を指すものだと考えようが、
実際上、項が『何である』と規定されて
しまえば、直ちに規定の際に用いられた
他の項との関係が参照される。


辞書的にはこの関係は「同じ」である。
ただし辞書が関係を記述していると
しても、項が現実の対象、或いは
具体的な観念との関係を与える
項目があるはずであり、辞書のみで
全ての項の内容を補充できる事は
恐らく無いだろう。



その補充されていない項、例えば
具体的な対象を指す、という風に
具体的な対象との関係が記述
されている項について、具体的な
対象を知らないのに、項として
は一応使用できる。


或いは空想物を指す項については
空想物を思い描けなかったとしても
項として規定されていれば使用
出来る。


ただし使用した場合に、現実との
齟齬、定義上の矛盾が起こらない
とも限らない。


辞書が完璧であるという保証は
あるだろうか?全ての語の意味を
実際に補充できるかどうかは分らなくても
少なくとも、項と項の関係が
漏れなく記述されていれば、
つまりはある項の内容が
有限の項の組で記述されていて、
規定された項を有限個用いて、他の項も
順次規定できるならば、一応は完全と言えるだろう。


辞書が完璧というよりは、言語が
完璧かという事に関係してくる。


辞書によって確認できるような
言語の構造は、勿論時代とともに
移り変わってゆく可能性もある。
具体的には、古語にはない現代語の
編入、古語の消失、等である。


項と項の関係自体が移り変わってゆく
ような事も起こり得るが、辞書が
規定した時点の関係は、辞書が
残る以上、確認する事が出来る。


辞書がナンセンスを含んでいない
とも言えない。循環論法的に
規定される語は、最初の「語」
の意味に辿り着ければ、次の
ものが分かるが、辿り着ける
かどうか不明である。例えば
「存在」と「ある」の関係。


「ある」という意味が分からない
場合は、どのようにして「ある」
を説明すべきだろうか?だが辞書
とは人が用いるためのものだから、
「ある」の意味が分からない人
がいるか、と訊かれれば…。


だから「ある」という語の意味を
考えるのは哲学的な行為になる。


ナンセンスというより、意味が
曖昧である場合もある。現代語
の中でも、曖昧に使っている言葉
も当然ある。真面目に考え出すと
分らなくなる…というより霧散
してしまうのではないだろうか?


明らかに特殊な条件に陥った場合
にのみ体感されるような感覚について
の名は、特殊な条件に陥れば
「そうか、これが「あれ」だな」
と分かるかも知れないが、定義
だけを幾ら考えていても分らない。
微妙なニュアンスを表現する言葉
は使用が難しい。


概念については辞書は不十分である
事も多く、概念を考察し初めて分るような
事は、辞書を超える。辞書もそれぞれ
説明の仕方が違うかも知れない。厳密
に言えば、辞書の中でその概念を用いて
何かの語を規定しようとする場合、
概念の説明いかんでは、どれも中途半端な
語の規定になる事もある。



色々説明してきたが、何よりも重要な事は
基本的に辞書に従うと言っても、概念を
用いる中途半端な語の規定より向こうの
(というより、その上層と言った方が
良いのだろうか)語については、それぞれの
人が、異なる風に理解して語を使用する、
つまり、それぞれが違う辞書を使用
している状況のようなものなのである。
本来的には辞書が無くても、共時態としての
構造は、意識しなくてもそれぞれ有している
と考えても良い。それが他者と共有されている
という仮定は多分、不能であろう。


実際、新しい語に出会った時、違う言語を
学ぶときを考えてみればわかる。


構造自体、項の理解が深まるごとに変貌
してゆく。つねに全体ではないにしろ、
部分としては確かに。


言語で捉えようとする現実は、言語の構造
よりも捉えにくい。現実から幾ばくかの
事実命題を言語によって表現し、現実を
言語で理解する。その場合でも、捉えよう
とする現実は、捉えなくても総体として
広がっている。


「木々が揺らいでいる」

「木々が風に揺らいでいる」


「風」自体、目に見えないから、目に見える
事象を捉えるなら前者で、様々な知識を得た
後での表現は後者になる。数学という言語と
物理学を用いれば、違った風にも表現
出来るだろう。


現実は言語を改めさせる。言語、特に概念
によって現実の見え方は変わってゆくかも
知れないが、多分、現実という語で言い表そう
とするものは、それ自体うつろいつつも、
現実と呼ばれ続けるだろう。うつろうものの
一時を現実と呼んで固定しても、そして
固定して評価を与えたとしても、それは
そう固定したものについて下す評価でしかない。


現実は○○だ。


それは永遠に定まらない。定まったと思い込むことは出来ても。

見えること

ある程度「先」の事を考えようとするが、
己の能力的にも全てを見通す事など
出来ない。見えているもの以上に
見たつもりになっているのは危い。


想像でしかない事について語っている。
その想像にすら自信を持てないから
それすら揺らぐ。


とは言え、今見えているものだけで
完結していると思うのも違っている。


分らない、見えない事に関しては
素直に、そう言うべきであり、それを
認めた上で考えてゆけばいい。


見えているものの中だけでは可能性
が限られてしまう場合、より成功した
いが為に不確かな事に乗っかってしまう
とすれば、成功したからと言って、
見えているものが増えたという事に
はならない。


肝心なのは、不確かな事を何らかの
手段により、「確かめた」という、
得られた事実だろう。何の説明も
なく成功した事について自信は
深まる筈がない。


先の事は分らない。けれど「今」起っている
ありのままの出来事を正しく認識する
事が出来たなら、見えていると言える。

行きたいところ

いるところに行きたかった。
何処にも居なかった。


行きたいところなどない。


そう知る、ここに来たかった。

実践

自分を大切にする。


まず、大袈裟に考えない。現実的な可能性
に合わせていけばよい。自分はその中で
見えてくる。

自らを

こんな大袈裟な事を考える事がある。


記憶をなくした「私」。その「私」は
既に私との繋がりはない。私と「私」は
同じ主体と言えるだろうか?


私と最も近い他者。



私はそれを想定している間、「他者」のような
「私」を、私だと考える事は出来ないし、かと
言って全くの「他者」とも考えられない。


「私」の振る舞いによって、私が築き上げてきた
ものが崩壊するとか、そういう事は殆ど問題ない。
むしろ、身近で親しい者としての「他者」に
対する同じような義務、情を感じる。


「他者」として想定している。その結果として
なさないとと思う事、してあげたいと思う事、
それは当然出てくる。親しい者に対するのと
同じように。


その「私」に伝えたいと思う事は、私が
居なくなる前に伝えておきたい事とそれほど
変わらない。だが「他者」と同じように、
その「私」は「私」なりの考えを持つだろうし、
私を否定するかも知れない。それでも、私が
得てきた事の中で伝えたい何かを何らかの
形で残しておくことは有効だと思う。


それも全て、可能性の一つとして想定できてしまう
からこそなのだ。だが出来る事も限られている。
私に出来る事をするしかない。


その一方で、私は想定される他者よりも、
実際に身近にいる他者に対してしたい
事、すべき事がある。それはどんな状況だろうと
私だろうと「私」だろうと変わらない。


「私」はどちらにしても、その「私」に
関わっている人の中で生きてゆくだろうし、
それを大切にすればいい。その「私」すら
またしても想定される「他者」について
考え始めるようになるとすれば…



多分、この文は血迷ったものとして理解されるだろう。
こんな事を考える暇があったら、自分の大切な
人の事を考えろ…。


自分の大切な人?


自分。


何処かで私は、その「他者」を自分と見なしている。
そう。『自分を大切にせよ』。どんな他者に対して
も、言いたい事の全てだ。自分を大切にしていれば
見えてくることがある。



それで、全ては言い終わっている。
プロフィール

なんとかさん

Author:なんとかさん
ナンセンスな物語を書くつもりです。リンクフリーです。

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