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全て

「人生の意味」、「世界の約束」。何かを知る為に生きている
という事がある意味で本当なら、

「人生の意味」=「○○」

「世界の約束」=「△△」


と知った『後』の人生は、一体何なのだろう?人生の意味を知った
としても、世界の約束を知ったとしても、人生は続くし世界は
続く。勿論、人生の方向性は変わるだろうし、世界の約束を知った
者が現れた世界になるという意味で、人生も世界もそれまでとは
異なる。意味は、約束はあって、でもそれはその時まであって
、そこから先に無くなって、そこから先のものにまた意味を
見出すという事の繰り返しなのではないだろうか?


けれど、その異なった人生なり世界にも通用する「○○」なり「△△」
を知ったとしたら、生はそれなりに落ち着くのだろうか。でも日々を
過ごしている間に、その実感は薄れ、また「そうではない」と思える
ようになる。そして、再びその確信が何かを切っ掛けにして繰り返される。


最後の花火が打ちあがる。いつか見た光景を重ねて思い出す。


「あっ」

と思う。最高の瞬間というより、これが『人生そのもの』とか、若者の
全てと思うようなものに出会う。その「あっ」という感じは多分どこかで
全てが凝縮されたものを言葉に出来ないという事を知り、言葉にするとし
たら「無限」に時間が必要なほど大切な事を知ったのだという感じなの
ではないだろうか?


「それ以上のものがあったら」


あったら、会ったら、それに対して何が言えるのか?



そして、再びまた最後の花火が打ちあがる。


最後の花火が終わったら、変わるだろうか?変わってしまうだろうか?
変わることは、そこから違うものになるという事で、でもやっぱり
知った事は変わらないかも知れなくて、変わる事を求めている
ような、そのままで居たいような、だから「変わるかな」は
悦ばしい反面、切なさもあるし、受け取るものによって違う
ものとして響くのだ。そして自分すら、どちらもあるのだと
すれば、『変わり目』の、変わり目たる瞬間に立ち合っている。
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猫話3

猫は「気紛れ」だという。気紛れのその気を了解しようとするとあんまり上手く行かない。だが、間違いなく言える事は、家の雄猫2歳の「マロン」はやって来て一か月の子猫「花」が気になって仕方がないという事である。


「花」との出会いは母が「twitter」で里親探しをしている人を見つけたところから始まったと言えるのかも知れない。ご存じの通り「twitter」では出会ってはいないが、写真を公開する事が出来て、半分知っているような関係が構築できるツールである。その「twitter」の真骨頂とも言えるリツイートの「拡散」によって何かを広めたい人の呟きは、かなり高速で人々に広がり易くなっている。母の場合は直接ツイートを発見したというケースだが、里親をなるべく早く探すという行為には、こういうのは非常に助かるだろう。


さて「twitter」の宣伝はこれくらいにして、要するに母は里親募集のツイートを発見したのだ。当維、と言っても一か月前の我が家では、既にすっかり大きくなったマロンとハッピーの関係が何となく良好になっていって、もう二匹も三匹飼うのも同じなんじゃないかと思っていた。だが、ハッピーにしろマロンにしろ家に辿り着くべくして辿り着いたような猫だから飼う一択だったが、三匹目の場合はむしろこちらから探していたという違いもあり、何か決め手となる条件が無い限り、飼うまでには至らないという状況だった。


しかし、「twitter」の画像の猫は何というか、やっぱり可愛かった。私は白猫が良いと思っていたが、黒っぽい姿も中々よく、なにより雌、女の子だった。ハッピーもマロンも雄。去勢したという野暮な事を言わなければ男の子である。そもそも家は男の割合が高かった。そこで女の子がここに入ったらどうなるのか?という事も地味に期待して、

「そのツイートをした人に連絡してみたら?」

と私は勧めた。「twitter」の情報によるとその猫は、ある家の犬小屋に迷いこんで犬と一緒に眠っていたらしい。「ん?」と思ったがそういう事もあるんだなと思った。同じ県内に住んでいる人で、連絡がついた為に、結構すぐに譲ってもらう事に決定した。



引き渡しの当日、母と私の二人でその人達と会って、可愛い猫を託された。


母は、案外容赦ないのか、仔猫が「鼻がぐずぐずしている」という様子を見て、すぐに名前を「はな」にしようと言った。「はな」が「花」だから良いものの、由来を聞くと酷いと今でも思う。ハッピー、マロンときて今度は和風の「花」は、しかしながら長毛で、どこか猿のような、山猫のような元気一杯な様子で、家に着くと犬と一緒に眠れるその順応の早さを見せつけた。家に入ってくるなり、とてとてと家の中を駆け巡り、リビングの窓のところで早速落ち着き、餌をあげると何のためらいもなく食った。それこそ『大食漢』とも形容できる食べっぷりで、しかも食べたら嬉しいのかはしゃぎ回って、戸惑うハッピー、マロンをよそ目に、遊び始める。そして疲れて眠る。こうして、あっけなく一日目が終わるころには、殆ど家に馴染んでしまった。


マイペースなハッピーはまだ気を許していなくて、時々「シャーッ」と蛇のような顔で睨むが、マロンは数日ったったら冒頭に述べたように、「花」と同い年の猫のように、呻りながらじゃれ合う(?)。台詞を想像するとこんな感じ…


「なんで言う事聞かないんだよ!!!」

「うるちゃい!!」

「噛むぞ!!」

「あたちだって!!!」


マロンはしつこく、花も粘る。この二匹が将来どうなるか「気」になる私がいる。もちろんハッピーとの関係も。次回からは、マロンとハッピーの関係とか、もうちょっと詳しい事を述べようと思う。

プロセスとしての気

「気持ちが揺れ動く、気が張る」

このような語は、意識としての気がそれ自体
としてプロセス的にというのか、生命現象と
して『動く』ものだという事を述べている。


気自体は、意識だが、それが生命特有のプロセス
でもって進行する際、他者は「それ」に左右されている
人を見て、「気」になりはしないだろうか?「気」に
ならない人もいるが、まるで相手の中にも自分と
同じような「気」というものが当たり前にあると
前提する事から、態度や様子の観察によって「気」
つまり今に関係する意識が動いたなと分ると、その
人が「気」になる事もある。それは単純に生命とか
動くものに「気」を取られやすいからであり、相手の
「気」を把握したという事ではないにせよ、「気」が
変わったという事くらいは了解するのではないだろうか?


「気」という生命特有のプロセスがあるとするなら、
それを観察する者は、それに対して「気」になり
易い。ゆえに、人が大勢いる場所では「気」になる
ものが増える。「気が張る」のは色んなものに「気」
が行くから、どれに集中したらいいのか判断に困って
固まってしまっている様子なのかも知れない。



気が溢れているなどという事は言わない。気になりやすい
生命のプロセスの中に誰かの「気」それ自体がある。


活動は活動を呼ぶ。その先触れが「気」なのだろう。

今の気

今、というのは物理的な今という時間でもある。
が以前に



正確には「今」というときにある私がいる。
それは私でない何かとの比較によって「今」
こう感じているという事が分る。

言うなれば、「今」の私を感じるためには、
その私でないものとの接触によって感じる
しかない。



と書いたように、「今」というときにある
私、自分が今と言いたいものだろう。私
ではないものと接触する。


気になるもの。気になるものが確かにある
時、私は私でないものと接触し、「今」の
自分を感じる。


気になる、という現象は確かに起っている。
文字を辿って「気」というのをあるとかないとか
仮定するのはまた別の話で、「気配」とか「気持ち」
とか「気合」だとか、気というのは生命、
生命感に関係しているものを感じたときの
語になるように、人間は生命感のあるものに
「気をとられ易い」、つまり「気になる」。


「その気がある」。「気」というものを意識
しているわけではないが、「気」になるという
のは他でもなく「今」なのである。物理的な
「今」、気になって気になってしかたないもの
。そこから今にある自分が分る。


「気」が溢れているとかよりも穏便に、周りに
あるものに今の自分が惹かれて、それについての
意識が生まれているというのが、「気」の
正体であり、気になりやすいものは、例えば
生命を感じられるものとか、生きているという事を
感じさせてくれるものとも言える。そこから
翻って、「気」がそこから発散されていると
仮定するのは、ややし過ぎでもある。

9月の

スプリンターズSはロードカナロアが強さを見せつけましたね。
応援していた馬と騎手は、ちょっと残念でした。


天気は晴れです。考えてみると今日で9月は終わり、明日から
は10月です。色んな事が切り替わる時期ですので私も少し
気分を変えて頑張っていきたいと思います。

猫話2

猫を飼っていると、それが当たり前になって全く気にならなくなる。時々うるさい時とか面白い姿を見せてくれると、飼っている実感が湧く。そんな猫が一匹いる生活が当たり前になっていた二年前の夏、我が家にもう一匹の猫がやってきた。


その猫は殆ど生死の境を彷徨いながら、必死に鳴いて自分が生きてゆける場所を探し求めていた。こう言うと何とも壮絶だが、実際そうなのだ。猫はある家の周りを何時間かウロウロしていたらしい。私はそれを知って実際に家の前で必死に鳴いている姿を見て、

「保護しないと…」

と殆ど当たり前のように思った。母も同意してくれたので、猫のところへ駆けつけて、抱きかかえて(記憶が曖昧)、とりあえず飼うか飼わないかを保留にして、餌を与える事にした。猫は勢いよく餌を平らげ、私に恩を感じたのか私にゴロゴロとのどを鳴らして速攻で懐いた。私はもうその辺で何か運命的な、宿命的なものを感じ、家の中に入れようと提案した。


もう飼ってしまったようなものである。最初は飼主を探すつもりだったけど。



さてここで一つ問題が生じた。突然の闖入者の出現により先住の猫「ハッピー」の警戒心がMAXになったのである。彼は小さくて健気に鳴く仔猫にすら容赦せず「シャーッ」と威嚇する。手は出さなかったが、態度は良好とは言えない。ハッピーの気持ちを代弁すると、「ここは俺の家だー!!誰だお前は!!」だったろう。私はひやひやしながら見ていたが、今やって来た猫は何故か全然警戒しない。それどころか嫌がるのに接近してゆく…「なんだこの猫は」私は思った。


飼主を見つけるつもりでいたのに、「マロン」という名をすぐに考えてしまったという事は、私は「飼う」一択だったのかも知れない。マロンと名付けられた茶の多分、、ノルウェージャンフォレストキャットが入っているであろう雄猫は最初顔が言葉を取り繕えないほど酷かった。猫風邪で目がぐしゃぐしゃ、身体は痩せ細って惨めな感じを拭えない。写真を公開すると、多分「虐待」とか言われそうだから、絶対出来ない。



動物病院にも何度かお世話になったがマロンは予想に反して太った…。というかノルウェージャンは太っているのが当たり前なのだろうか?だが最初に見たときは長毛の雑種くらいにしか思っていなかったから、この変化にはビックリした。



今、マロンは新しくやってきた猫「花」に夢中である。次回は「花」についてrrrrrrrrr3444444444444444444え(花がキーボードにのって出来た文字列)…

「花」について紹介しようと思う。

新しい答え

以前に問うた事について、以前とは違う答えを与えようと
思う。

「私は何をすればいいか?」

これに対して、以前の私はそれには答えがなく「私がしたい事」
としか答えなかった。だが、もう少しだけ情報を与える事が
出来る。


そもそも私は様々な問題を抱えて生きている。問いとしてそれは
語られるが、問いは一つだけであるのではなく、様々な問いの
絡まり合いとしてあるという事を理解すべきだろう。


つまり、一つを問うと次の疑問や問いに行き着く。その中の
一つとして「私は何をすればいいか?」がある。勿論、
問題の実際的な大切さとしてはこれは大きい。しかしながら、
様々な事に対して問題意識、ないし興味を持っている事で
「したい」と思える事は生じるのではないだろうか?
だとするなら、それ自体として延々と悩んでいても
答えは見つからないような問いなのである。少なくとも
私はそう理解する。


「何をすればいいか?」


と問うている間にも、実際には何かをしている。すればいいか?
という事に答えるのではなく、とにかくする。生きている
限りにおいてする事があるからである。そのする事を円滑に
進められるようにする仕事があるのは確かだし、する事を
普通に続けられるような物を生産する仕事もあるのは確かだ。


それを普通に行っているだけでも問題というのは生じてくる。
独立しているように見える問題も、実は何かが絡まり合っていて
、認識が不足しているがゆえに問題となっているような事もある。


「したい事」


当然、問題を解決するとか、解決する気力を養う事をするとか、
何か良い物を作ったり、良い事を考えたりするのも必要である。
どれが先決か?優先すべきなのか?と言われると、状況状況で
異なっていて「したい」と思った事も、優先すべき事である
ような場合もある。だが「したい」は単純な欲求なので、
それをしたことの効果を計算しがちである。




「でも哲学的に考えるより、やってみた方が良いんじゃない?」


みたいな判断も重要だろう。という事で今日は久しぶりにゲーム
でもしてみようかと思う。

あさごはん

日曜日ですが、今日も猫の朝ごはんの為に早起きです。
「花」ちゃんは目をクリクリさせてパソコンの前を
ウロウロしています。茶の猫「マロン」よりは
頻度としては少ないけれど、のどをゴロゴロ
ならします。人懐っこい猫ですね。


今日は曇り気味。競馬ではGⅠのスプリンターズSが
行われ、応援している騎手と馬がいるので今から
少しドキドキしています。

自分を超えてゆくもの

「自分を超えてゆくもの」


自分は変わってゆく。成長もすれば加齢とともに退化もする
かも知れない。それでも自分を把握するという方向については
続いていれば確かに超えてゆく。自分はより自分の事が分って
振る舞いやすくなる。そういう意味では、「超えた」と言える。


イメージとしては、移り変わってゆく曖昧な図形を、最初は
カクカクした様態で捉えていたものがきちんと、曲線のように
も捉えられるようになってゆく様と言えるのかも知れない。



成長の方向では自分は大きくなってゆく。自己把握がきちんと
出来ているかどうかは別としても、「自分」というものは
自分を把握しなくても超えてゆく。把握しながらやれば、
自分がより分かって無駄がなくなり、それもある意味では
洗練という方向の成長である。


自分というものは同じではない。多分そうである。だから
変わりながら、それでも捉える為の「知」というものを増や
していけば、スムースに移り変われる。自分を把握する技術
の成長と自分の成長。前者も自分の成長であるが、自分が
より色んなものを理解できるようになる、許容できるように
なるという事では、後者の成長も必要である。

猫話1

猫が家に初めてきた時の記憶は鮮明に覚えている。今でこそ猫はみんな違うんだということを当たり前としているけれど、以前はそうではなかった。猫というのはとにかく可愛い生き物だという事くらいしか思っていなかったかも知れない。


年長の猫、キジトラの雄9歳は兄弟姉妹と思われる猫達と供にダンボール中に入っていたのを発見され、誰か飼ってくれる人を探していた時に、その話を聞いて「ぜひ見せてください」と言った家にダンボールのままやって来た。猫達の中でもやたら元気な一匹は、ダンボールから飛び出さんばかりの勢いで、母は「この猫にしよう」と言った。今思うと他の猫の事もどうにかしたかったなと思ったが、初めて猫を飼う場合、いきなり何匹も世話するのは難しいと判断したので、その判断は間違ってはいないと思う。


「ハッピー」と母に名付けられたその猫の一番幼くて可愛い時期を私は大学二年の夏休み、自動車学校に通いながら少しの間だったが面倒を見た。元気いっぱいだったが、日中家に誰も居なくて大丈夫だろうかと不安だったので、急いで帰ったのを覚えている。幸い、特に病気をすることもなく、すくすくと成長していったが、私は夏休みが終わって居なくなったので、その成長の様子を見る事は叶わなかった。色々あってなかなか帰省出来ずに、随分大きくなってから「ハッピー」に再開した時には、あんまり懐かれてなくてショックだった。その後ある人から、「離れてしまったから寂しくて怒っているんじゃないか」と言われたのを少し気にしているが、その代り、今では相手が嫌がるくらい触ったりして、別の意味で怒らせている。性格は非常に神経質というか、マイペースで自分をしっかり持っている。それを乱されると厭なのだろう。そして、割と一匹だけでも平気らしく、寝るときは母といつも一緒に寝ているが、日中は基本的に数ヶ所を交互に移りながら眠っている。大分、歳とったなぁ。



ちなみに、この猫が普通の猫だと思ってしまった事から、次にやって来た短編の「マロ」のモデルとなった「マロン」に対して幾度がびっくりする事になるが、それは次回。
プロフィール

なんとかさん

Author:なんとかさん
ナンセンスな物語を書くつもりです。リンクフリーです。

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