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ありがとう畑

今朝、とある知り合いから新鮮な感謝状が届いた。


『ありがとう畑よろこんだわ芋』


この一文の意味を考えている間に子供達が徒党を組みだした。一人だけ所在なさ気に訴える。


「ぼくはあぶれてしまったのです」

あぶれ少年が言ったのを気にしないようにした。そういうのは自分で解決しなきゃいつまでもあぶれる。油で揚げる…。



豚カツが美味しい季節になった。冷静に考えるといつも美味しい。ほわほわした感覚でポージング。ファールフライを打ち上げた強打者が上を向いて口を開けているポーズ。あぶれ少年が言った。


「おじさん。ホームラン打てなかったの?」


「少年。良くファールだと分かったね。これは相当に難しいジェスチャーゲームだよ」


「だって、おじさん『ファールフライ』って言いながらやってたじゃん」


「そうだっけ…?モノローグにはないな」


「モノローグに書かれてある事しか起ってないわけじゃないからねって忠告しなきゃダメ?」


「駄目でもない。駄目でなくもない。要するに、どっちでもいい。あぶれるのは駄目だけど」


大人げない毒を少年に向かって吐くのはあんまり良くないけど、ダメという法は無い。一般常識的に考えて駄目だろうと思ったが、たくましい少年に育って欲しいという願いを込めてポイズン。


知り合いから届いた感謝状には『P.S. この前彗星が蒸発しましたね』とあった。字面に笑ってしまった。笑ったけれど、お前がこの前蒸発した事は許さない。


「なんで蒸発したんだろうね?」


少年は純粋な好奇心で訊いてくる。


「俺がいじめ過ぎたせいだ…」


「は?何言ってんだ?物理的に不可能な事ぬかしてんじゃねーぞ」


意外にも科学的な発言に厳しい少年はこの老いぼれを罵倒する。でもこういう時は少しくらい聞く耳を持ってくれてもいいじゃないかと思った。


「そんなんだからあぶれるんだよ」


一応忠告はしておく。


「正論を言ってあぶれるんなら、それもまあしょうがないよね」


昨今、達観している少年が増えているとかいないとか。めんどうくせえ時代になったもんだ。


「めんどくせえ時代になったもんだ」


「本当にね」


面倒くさい者同士が会話してんだかしてないんだかよく分からないコミュニケーションを取っている今日この頃。
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ネタ作り パート1

「ふんわり感情。みみっちい話題はこれくらいにして、聞こえない大芝居を打とう」

恩着せがましい亡霊は言った。でもそれってテクマクマヤコンの助。大体において
北北西には法理がない。奇怪なパーソナル昆布。


「やっぱり君には肉球が必要ですね」


と言ってごくごく一般的に見える亡霊は僕に肉球を与えた。豚肉でできた球だ。美味し
そう。異論世に無く清教徒革命。



玉手箱に玉手箱を入れる。その玉手箱のなかにマリオネットを入れる。マリオネットの
頭部に玉手箱を入れる。その玉手箱の中に亡霊を入れる。


正解など何処にもない。間違いばかりだ。だけど間違うってことは、少なくともそれでは
無いという事であり、それとは違う事を繰り返していれば正解に辿り着けるかも知れない
という事でもある。



「それで、私を閉じ込めたつもりでも、私は再び再来します」


再来年くらいに再来してください。皿洗いにね。


ラジオで流れているのはパンプキン・ハウスを褒め称える讃美歌だ。味噌汁が食べたい。

真実からの逸脱

『真実』という語において、これを一旦記号として眺める。
『真実』の意味は辞書を引くまでもなく『本当の事』で
ある。

このとき、『真実』の意味を保留にして、『真実』=△△
のようにして『本当の事』以外の内容を代入して生活する
場合、かなりの逸脱が起こる。


『真実』という語が語られるたびに、語られた事から違う
意味を受け取る。しかも、『真実』という語の機能が不全
である為に、


「あなたは真実を述べていない」


と指摘されても、『真実』という語を誤解しているがゆえに


「あなたは△△を述べていない」


という内容で理解し、この言表をそのまま受け取り場合によっては
その返事として述べていないと言われた△△を述べるというような
的の外れた内容を話す場合もある。



『本当の事』があるから本当じゃない事、嘘、偽り、間違いがある。


『本当の事』という意味は知っているとしても、『真実』の意味を
誤魔化して使っているような場合は恐らくあるだろう。


『真実』と言って、そこに『嘘』を代入して用いると、『嘘』なのに
『真実』だと主張する可能性もある。


『本当の事』という意味を知っていても、肝心の『本当の事』と
して語れる内容が空っぽだったりする場合もある。



『真実』という言葉の意味を『本当の事』とするのは約束である。
だが、『真実』と言えるほどの事を知らない場合には、『真実』
を述べろと言われても述べられるはずがない。


『真実』という言葉の意味を『本当の事』にしないとしても、
『本当の事』は内容として知っている。ただ『真実』を述べろと
言われた時に、その『本当の事』を語らないで済ます事も可能
になる。



『真実』という語を、そのまま『本当の事』として使っている
状況では、真実という語を使用してゆく間に出来る『命題』
が浮かび上がってくる。


ある漫画のように「真実はいつも一つ」という発言が、
それ自体として論理として「真」な命題なのかどうかは
真面目に考える必要がある。ある意味で、それは分析的
命題のような、綜合的命題のような、とにかくすぐに
導き出されるような結論ではない。例えば次のような
状況である。


あるシステムと別のシステムにおいて、それぞれのシステムで
扱える事実の群が違うとして、そのシステム内で語られる
『限界』があると考えるのである。片方のシステムで語られる
事の中において、ある事象はある事として語られ、それは
そのシステムにとって真実である。別のシステムの方でも
その事象がある事として語られた場合、両者の言表が異なる
場合がある。あるシステムに参入している限り、別のシステム
には参加できないような条件では、専ら片方の情報しか
判定できない。己とは違うシステムそのものをどう評価
するかによって「真実」がどうなるかは異なる。特権的に
一つのシステムのみが「真実」を述べているとは限らない。


だがそこで違う真実が語られる。見え方が違うと言って
しまえばそれまでだが、『正しい解釈』というものを
保証する存在がいないのであれば、語られたことの中で
真実を判断するしかない。「真実はいつも一つ」という
のは「真実」に辿り着く前から、「真実というものが
常に一つ」だと予め命題として述べているだけであって
証明はできない。観測における実在論とも似ていて、
観測しなくても値があるのかどうか、それは誰にも
分らないように、真実を知る者がいない状況では、
「真実は一つだ」と想定すると都合がいいからそうする
のである。


長くなったが、「真実はいつも一つ」という発言が論理
的に「真」なのかどうか検証した場合に、どうしても
自明ではない。逆に「その言表は「真」なのか?」と
問うた場合に、「真」という事のむずかしさが了解できる。
多分、証明は出来ないかも知れないが、そうなのだろうと
判断している命題だろう。そういうレベルの命題が
『真実』という語を『本当の事』として用いている状況
ではいくつか浮かび上がる。だから、そういう言われている
事と整合性を取るためには、『真実』は『本当の事』
として用いないと、意味了解が混乱する。


既に「真実」について語られている言表がある。それは
殆ど『真実』=『本当の事』で通っている言表なのだ。
つまりそれを「真」と了解するから、今更『真実』=
『△△』という特殊なコードで解釈すると、了解している
事の齟齬が生じてしまいかねない。



「これから嘘を語ろう」



「これから真実を語ろう」



「これから玉葱を語ろう」



では、明らかに内容の重みが違う。嘘は複数考える事が出来る。
真実は分っている場合には一つだろうと信じている。だが、
『本当の事』が同時に二つあって悪いという事も無い。例えば
「愛」なのか「憎しみ」なのかというお決まりの複雑さに
ついては、実際のところ一面的な解釈では不足なのである。
だからと言って、「愛憎」とまとめてしまっても何かが足りない。
要するに、最後のところでどっちなのかが「はっきり」しない
という事が、この場合の真実と言ってもよい。良く分かっている
が「はっきり」しない。そういう、はっきりした結論を与える
事の出来ない真実もあるが、それも語られる事として「一つ」
にまとめる事が出来るという意味では、「真実は一つ」と
言えばそうなる。


だが、嘘は何でもよい。定義が「真実でない事」ならば、
その定義からも容易に、「でない事」の複数性が分る。
言葉の意味として、それ以上の限定を持たない。
例えば「私でない人」と言った瞬間に物凄い可能性が
出てしまう事と同じだ。「私」が一つしかないのに比べて。



「これから玉葱を語ろう」


という文はそれ自体としてナンセンスではないが、続く文脈に
よっては完全なナンセンスになる。


「これから真実を語ろう」


において、『真実』=『玉葱』として解釈してその後の事を
読むのに、一切『玉葱』の事について語られていないならば…



単文では成立しても、話し手として話す場合に前後の脈略が
なければナンセンスになる。前に言ったことを「真」とみなして
話す、あるいは「真」と仮定して思考として披露する、といった
事が無ければ、文章は繋がらない。それはデタラメである。



突然切り出したような話でも、薄い連関がある場合がある。
ある「語」を中心にして筋が見えてくるとか、連想的に
自然な流れになっているとか。その薄い連関が見えると
「思考」として読むことが出来る。少なくとも、その前の
段に述べたことを引き継いでいる限り、それだけではナンセンス
になるような文が文脈があって成り立っていたり、逆にそれ
自体ではナンセンスに見えない文のナンセンスさを浮かびあ
がらせる事も可能なのだ。



「思考」において、幾つかの命題を「並置」して考える
事は有効だ。一つが成り立っているように見えても、
他の命題によって無効となってしまうようでは何の
状況も示せていない。ナンセンスに見える命題が
ナンセンスでないという事があり得るとすれば、
他の命題との関係においてだ。逆に、ナンセンスな
筈の命題がナンセンスに見えないときは、他の命題
が介在、機能していると言って良い。ある意味で、
幾つかの命題が共時的に得られるのだろう。



既に成り立っている世界がある。この世界が
どう成り立っているかを知るには、やはりその
共時的な事を知る必要がある。



やや脱線したが、それはともかくとして『真実』
という語の意味の問題では『間違い』はしては
いけない。

情勢?

今日は風が冷たかったです。


ニュースでもいくつか気になるのがあるのですが、基本的に短編を
書くブログなので、社会情勢を少しでも反映させた短編でも書けば
両方とも中途半端に書いたことになるのでしょうか?


でもいざ書き始めると、全く予定しない話になってしまうのです。

ぐにゃぐにゃするもの

「何すりゃいいんだろう」


それは誰に向けて言ったわけでもないただの愚痴のようなもの。感情という
ものはそれ自体真面目な思考として扱われると本質が失われる。「何すりゃ
いいんだろう」が「私は何をすべきなのか」として解釈されて、真面目に
行く末を考えたいというニュアンスで使われるとしたら、それは全然感情
ではない。要するに、思考のように何か秩序立てて考えるというよりは、
『愚痴』として聞くほかないような、心情の吐露なのである。


「何すりゃいいんだろう…何もできるわけないじゃないか!!」


と言葉を補えば、反語として了解されるかも知れない。そのネガティブさは
思考が基本的に建設的でポジティブだとすれば、ポジティブに思考を始めよう
とする事自体が出来ないような、否定から入る情の動きである。本当に何も
できるわけないと分っているなら、「何をすればいいのか」など考えること
などない。きっと何もできないと分っているのでもなく、分ってもいない
のでもなく、曖昧な状態ではっきり分かっていないうちから諦めが入るのが
ネガティブさなのだろう。しかも「諦め」といいつつ、諦めていない。
諦めていないのに、諦めそうだと言う事、それはもう愚痴でしかない。


感情の吐露が愚痴にしかならないというのは致し方ない。実際問題として、
ポジティブな部分はその感情に構わないで建設的な思考を始めようとして
いるのだ。だが、弱気とも、情とも言える部分は、そんなに単純では
なく、ぐにゃぐにゃに動いている。


逆にいえば、ぐにゃぐにゃに動いているものはどうやったって、ぐにゃぐにゃ
に動くわけで、思考して落ち着かせたとしても、まだ何かぐだぐだ言う
ものだ。

風の日

風が強い日である。背の高い木が風で煽られているのを見ると
外に出たら吹き飛ばされそうな予感がする。晴れてはいるが、
こういう日は静かに過ごしているのが良い。とはいえ、借りた
本を返さなくてはいけない。


雲について書かれてある本を借りたのだが、全部は読めなかった。
というか、基本的なところは了解したのであとは気になったら
その都度自分で調べるようにした方が良い気がする。今日の雲は
濃く白い雲に灰色がかっている小さい雲が混ざっている。陽を
遮っているのでやや暗い。青空が見えるが、なんとなく薄く
思える。


気温はそれほど低くもないので猫は元気に過ごしている。

日曜の夕方

ジャパンカップを見て、走破タイムが凄いなと思いました。
特にネタはありませんが、それなりに色々あります。夕方
散歩をしてポケーッとした気分になれたので良かったです。


最近よく「そば茶」を飲んでいますがカフェインが入っていない
ので、飲みやすくてお気に入りです。冬になって寒いので、
温かいものが恋しくなるというわけで。

良いと思えること

「何をすればいいか?」ではなく「何をしたら良いと思えるか?」について悩んでいる。本当にそれが良いと言える方向に進む事は困難かも知れない。けれど何かをしても何もした事になっていない気がするなら当然、きっと良いと思っている事が分かっているという事なのだ。

擬態男子

[擬態]


『脱力系男子』で生きている瞬間がある。面倒くさい事があると、強引に自分が『脱力系』で過ごしているイメージを強調して、「俺は脱力系だから」と規定して、その路線でイメージ通りに振る舞う。それは、何の印象ももたれないはずの素の自分より何かに属している感じで、自分としても楽だし、相手にそう思われればそう解釈されて面倒な事が起こらないので楽なのだ。


要するに私は擬態している。誰が分類し、特徴付け、名付けたか知らないし、知る気力もない半分くらいはマスメディアによる俄かな意図によっていつのまにやら誕生している『系統』、『形態』の一つの中に自分を放り込んでしまうのは、それこそ議論するのが面倒くさいからである。細かく議論するならすぐに粗が出てきてしまう。ちょっとしたことで熱くなってしまう性格とか、議論する時には正確さと精密さを要求するような完璧主義的なところは私自身、人に合わせるために普段は封印し、『脱力系』の皮を被って生きている。


面倒くさいというのは本当だ。それは地の性格で他者と何度も衝突を繰り返し、繰り返したところで別に何かが変わるわけではないという事をさんざん思い知らされている為で、この悟りなのか諦観なのかよく分からない心境、心情は、説明するのも面倒になっている。その面倒になっている、とか大雑把でいいやとか、ゆるい感じを共通項として集められる類型はそれなりに気に入っている。だが、頭の中ではゆるくもない強烈な思考が絶賛空回り中で、要するに上っ面を撫で回すところにとどまってくれていれば、地なんてものを明かさずに済んで楽なのだ。隠れ蓑としての類型。マスク、仮面。


実際、身の回りに脱力系の人を見かけた記憶はない。有名なアーティストの真似と言っても良い。その人が肯定する何かを便乗で肯定していればそれなりに格好がつくようなものだ。その類型に収まっている日々がずっと続けばいいとは思わないが、正直言ってこの擬態は便利だ。



[苛立ち]



その日私は、バイト先の先輩に何かを言おうと思った。私はそれほど人に意見するような性格ではない。けれど、彼が放った「まあ、色々あると思うけど適当でいいんじゃね?」という一言が私の心を掻き乱したのである。順を追って話をすればこうだ。先輩が見た目からは想像しにくいけれど真面目な人である。私はそれを評価している。だけど、私はバイト先の社員さんが先輩の事を悪く言っているのを聞く。曰く、『あんまり深く考えてない』とか、『やる気がない今どきの人だ』とか。それは明らかに先輩を良く知らないのだ。少なくとも、私がミスした時にさり気なくフォローしてくれたり、何だかんだ言いつつ色んな頼みごとを聞いてくれるのは、根が真面目だからである。私が苛立ったってしょうがないのだけれど、そう思われているという事を私が先輩に伝えたときに、

「まあ、色々あると思うけど適当でいいんじゃね?」

と言われて、それ以降私の心の中では

<何で先輩はそんなに無関心なの?何で先輩は…>

という叫びが続いていて、鳴り止まない。


バイト終わりに私は先輩をファミレスに誘った。夜遅くだったから店内は空いている。私は思っていた事をじっくり伝える。


「先輩。あたし、先輩は真面目だと思っています」

「そう?普通だと思うよ。君も真面目だしね」


いつものように、先輩は大切な部分をはぐらかす。コーヒーを思いっきり飲んで、勢いで言う。


「先輩の事を尊敬しているから言うんですけど、勿体ないです」


「何が?」


多分、先輩は分っている。私が何を言いたいのかも分っている筈だ。


「周りの人にどう思われたって良いのか、わざとそうしているのかは知りませんけど、先輩はもっと繊細な人の筈です。色んな事に気が付くし、本当はもっと色んな事を考えているんじゃないですか?」


「まあ、そりゃあ考えるんじゃない?明日の事とか…」


「…何で真面目に話してくれないんですか?」


私は静かに怒っている。先輩は私を見つめている。と、観念したのか、先輩は重々しく口を開く。


「真面目に話すのは大変だよ。俺は今のままでも別にいいんだ」


「あたしは良くありません!」


やや大きな声は店内に響く。


「○○ちゃんさ、どうして俺の事なのにそんなに真剣なの?」


「…分りません。でも先輩が勘違いされることも嫌だし、先輩がそれでいいやっていう態度をとるのも『私』はいやです」


一瞬、先輩は私の事を窺うような目をした。そして少し俯いて、


「真面目…なのかな」


とボソッと呟く。私は肯定するでもなく、


「真剣なんです」


と言った。





次の日から先輩は少し変わったように思う。前だったら、何も言わないところでも必ず何かを言うようになった。社員さんは『○○君、最近変わったね』というけれど、私はそれが先輩の本音だったのだと思う。私はそんな先輩の姿を見て、人知れず心の中に秘めた事があるのを感じた。



それをいつか伝えようと思う。



[脱皮]



自分が自分でいていい場所を探していたように思う。世の中の男性というのは大抵そうなのではないのだろうか。そんなにシンプルでもなく、自分でも面倒くさいと思うような部分を持っていて、その面倒くさい部分を適当な理由をつけて軽い話題にすり替えてその場をやり過ごすような。



だからだろう、真剣な話をするのも面倒になっていた。真剣な話をして相手にしてもらえるかどうかは分からない。でも、彼女ならば笑わないで聞いてくれるだろうか?



いつか、伝えようと思う。

評価し評価される私

「私は私」という言表を巡って、幾つかの思考をしてきたが、もっと
実践的な意味で用いられる「私は私」という発言について考えてみる。


慣例的に、「あなたはあなた、他人は他人、私は私でしょ?」という
ニュアンスで、一般論とか他の人に通用する事の中で動いているので
はなく、自分にとって確かな事、自分にのみ通用するような事におい
て、自分は他の誰とも比較できず、自分にとって良いと思う方向に進
めばいいという考え方ある。


と言っても、人間は差異を含みながらもある程度構造が決まっているし
、少なくとも類似性は見られるので、「あなた」も「他人」も「私」
にも通用するような論なり物質的な影響は当然ある。物質的な影響
は例えば薬などはそうである。大雑把な捉え方とか、測る方法いかん
では、私にも他人にも、あなたにも通用するようなある測定によって
得られるデータを元にした判断もあり得るだろう。単純な量の多さでは
なく、ある量と他の量の間の比の関係において成立する『標準値』なら
ば、類似性からいってあり得そうな事である。


そうでなければそもそも言葉が使用できない。「悲しみを乗り越えて」
という表現でも、「悲しみ」というのが同型対応的に私と他者が同じ
ものを意味するのでなければ、ある人が「悲しみ」と呼ぶものが
「喜び」であったりする可能性もあるのである。「悲しみ」は単純な
量ではなく、様々な量の関係が「ある構造」を与えるときのように
解釈するならば、その関係の「構造」は、同じである。その「構造」
についての了解があるから、「悲しみ」という表現が用いれる。
ただし物質的な量というよりも『強度』と言えるのかも知れない。
その場合、それぞれの「強度」同士の関係がある構造となって現れる
という事である。


量にしろ強度にしろ、何らかの方法で、他人も私もあなたも通用する
ような言葉を用いて、ある状態を表現していて、それは完全とはいわ
ないが、情報を多くしていけば了解可能である。そうではあっても
「私は私」なのである。情報を共有して、互いに応援しあう関係
であっても、「私は私」に出来る事をするべきであり、自分で行った
事の喜びなり達成感なりは、自分でやって味わうものだ。社会では
組織で動く場合には、自分でやった事だけでは物事が完結しない
から、協力する必要がある。ただその場合でも、各々がその立場
から出来る事をするというのは変わらない。


ただし、他の人の立場になって何かを行う事が出来ないわけではない。
使い捨ての道具のように扱われる労働者が、「あなたの代わりは幾らでも
いる」と宣告される場合、確かに単純な労働なら『誰でも』できる
というのは本当なのだろう。『誰でも』という言葉は、しかし厳密
には常に全ての人を指すわけではない。あくまで、『労働者』として
働ける人なら『誰でも』という表現である。


『幾らでもいる』という部分が、もはや「あなた」とか「私」という
のを全て見ていない、単なる労働者としてしか見ていない表現が
よく出ているところである。世界中を探したって、「私」と同じ
事をする人は居ない。似ている事はしているかも知れないが、全く
同じではない。差異を無視する事によって、似ているものが同じ
で、大まかにみんな同じと言っているのだ。そして『幾らでもいる』
という条件については、本当に『幾らでもいる』のかというと、
住んでいる場所とか、物理的に可能な条件にいる人に的を絞れば、
『幾らでも』ではなくて『幾らかはいる』というのが正しい。
『幾らでも』が誇張なのは確かである。それこそ、幾らでもある
ような働き方の中で、その労働を『知っている』人を数えれば、
実際に募集をかけてみなければどれくらい希望者がいるのか分か
らない。無限のように見えるかも知れないが、所詮有限の話なので
ある。


どう考えても、他の人の立場になって何かを行う事は出来ない。
そして他の人と私とあなたは価値観が違う。その意味でも確実に
「私は私」なのだという事が明らかである。私の行為を意味づけ
られる人、説明できる人も限られている。常に複雑な状況がある。
歴史的な問題、社会的な問題、地域的な問題。その中で動いて
いる事は確かなのである。それでいて、その全ての関係を
常に説明できるわけではない。思慮があったとしても、それは
遠方にあるものを意識するような思慮である限り、日常生活
では実感が湧かない。とは言え、自分の置かれている状況を
理解する場合と、そうでない場合とでは明らかに振る舞いが
異なる。その状況を「知る」のは、明らかに私だろうし、
何らかの意味で近くにいる人だろう。やはりここでも「私は私」
が通用する。意識しているものがそもそも違うのだから、比べる
事は出来ないが、少なくとも意識しているものの中で正統
に、正確に答えようとする私と、そういうものを意識しない
私では、真面目さが違う。「私は私」というのも真面目に考えた
場合であり、雑に考えれば、「私」は精々、ある類型の
中の一人という役割を生きる人間になってしまう。


そのギャップである。片や真面目に自分の状況を認識して、
正攻法で思考する見方を評価する空気と、雑に捉えて、
個人が大きな物事の中に埋没するような類型同士の関係
としての人間社会を俯瞰しているように見ているある評価者
『個人』の視点によって描かれる、陳腐な世界。つまり
不真面目な思考。この不真面目な思考、殆どが一般論に
化しているような思考において誰かに与えられる「評価」
は、実際のところ何も評価していない。だが雑観し、戯画化
するには、この視点も必要である。しかしながら、人の
内面の複雑さに入り込まないで、ただ振る舞いからその
心情を一般論で適当にでっち上げるような評価からでは
人間の事を正統に評価できる筈がない。その評価者『個人』
の心情を推し量るとすれば、多分雑なのだろう。雑な
処理だから、その評価者すら容易に戯画化できてしまう。
評価する者が、背後に廻られ、逆に無意味だと評価される。


マスコミ批判だけに限った事ではないが、もっと真面目に見ろ
と言いたい。メディアすら評価される時代になっている
のだという事。評価する者ですら、評価されるような
位置にいるのだという事。


「私は私」である。その十全な意味は、私も評価する一人
だという事だろう。
プロフィール

なんとかさん

Author:なんとかさん
ナンセンスな物語を書くつもりです。リンクフリーです。

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