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世界がこうあるから

世界がこうあり続けている。だから私がこうしたいという事があるのだとも言える。
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もう少し

私は続いている。あり続けている。が同時に「変わり」続けている。
生物としての曖昧な限界の中で、限界自体も動きながら、その中で
変わり続けている。


限界が動き、同型な事象が繰り返されるとすればそれは反復だろう。

それくらいの同じ

http://katakata56.blog.fc2.com/blog-entry-591.html


「同型」という概念は数学の代数学の分野では良く使われる。
主に集合の要素ではなく、それらの関係の「構造」が他の集合
の要素の関係と「同じ」であるような場合に「同型」と
言われる。一つ一つをただ見ていっただけではなく、全体
として眺めた場合に、同じだと言えるような事。それは
何もこの分野にだけに限らない。類似性と似ているが、
もっとはっきり何かを言っている。


世界の、私の、構造などというものはそう簡単に見えたりは
しない。構造主義でもないので、全てが構造化されているとも
常にその見方が通用すると主張したりはしない。だが、世界
が情報として前とは少し違っている筈なのに「同じ」と認識
するのは、大雑把に、つまり大雑把に関係だけを見ていった
場合にその関係が前と今とで変化していないからではないだ
ろうか。


もちろん、部分は構造を変化させている。それでも尚、それは
マイナーチェンジだと言って通用するような、大枠が常に
あり続けている。物理でいう自然法則、人間が存在する限り
において形作られる社会の普遍的なカタチ。小さいところでは
一人一人の人間としての生理学的な恒常性。恒常に保たれる
その機能と機能同士の関係が一つの構造をなしているので
あれば、つまり「私」の構造もどこかで差異を孕みながらも
同一といえるように「自己」に引き継がれているのではな
いだろうか。


同一性を主張するのではなく、同型性を主張するのは普通
かも知れない。それを「同型」と呼ばないだけで、普通に
「同じ型」をそこに認識し処理している。


ならば、その「同じ型」と言うところの、模範となる最初
の第一印象は?普通は「前後」で比べられるけれども、
第一印象はそれと同型なるものを比較する為に、ずっと
保存されている可能性がある。



私に保存されている同型性と、私の固有性はどのように
関わってくるだろう。



追記:


「同じ型」とみなしているその模範が常に語り尽くされて
いるわけではない。だが何らかの意味で、「同じ型」だと
判断する知の部分はあって、それが「型」自体を明らかに
する。


例えば、何か「いつも同じ」だなと感じるとき、その「いつも」
という典型的な姿は最初は無意識である。

続いて

私という何かが続いているのは確かである。あるというより続いている。

想像力の

何を恐れているのか言葉に出来ないということの方が怖いともいえる。言い表されている事以上の事が起こっているのではないかと思っているとすれば、逆に言えば言い表されている以上の良いこともあるのではないかと想像するのも自由である。

何かをするから、したいと思うから

何かをしている、或いは何かをしたいと思っている人にとって意味があり
価値があるような事物。それをする事がなくなれば無用のものになって
しまうような物。それに興味を持たなければ単なる事実。


ある思考についても、それに関係する事に興味がある人にとっては活きてく
る意味や価値のある思考だが、それに興味のない人にとってはただの文字列。



以前にも少し言ったように、「何かの外的状況が関係し興味ある時にはすごく
意味のあるように見えて」、全くそういう事態ではなくなった場合には
「戯れ」にも見えてしまうような文章が多分ある。


『ナンセンセンス』という造語ですら、そういう事を経験する前にはナンセンス
な語で、経験して以降には「センス」として了解される。だが、一般的には
造語の域を出ないし、意味が込められているとしても了解しにくい。だから
『ナンセンセンス』は常に『ナンセンセンス』のままだといえばそうだ。


昨日の言い方に倣えば、『ナンセンセンス』という語の元に外延的に集めた
だけの文章が並んでいるに過ぎない。ここに内包的定義を与えられるのか
というと、多分不可能に近いだろう。それでも私の感覚で言うと、「微妙」
にそれっぽいものがそこに書かれる。「類似性」、「類縁性」、「同型性」。


「個人的に意味があるもの」は、他の人にとって意味がない事がある。
そういう意味でもナンセンセンス。逆に、私があんまり意味がないと
思う事でも意味を見出す人がいるかも知れない。ならナンセンセンス。


多分、何かをしている、或いは何かをしたいと思っている人にとっては
意味や価値があり得るのだ。その何かをしていない、したいと思わない、
人にとっては無意味、無価値とも言える。

ナンセンセンス

対象を指す語について、対象を内包的定義によって言い尽くした内容を狭義の「意味」と言うなら、外延的に定義された事物を指す語にはそのままでは「意味」がないと言える。というより、指しているだけで、それが何なのかを意味付けていないと言える。

だが実際、内包的定義が与えられている事物の方が稀なのかも知れない。主観によってそれがどんな事として理解されているかも意味だが、客観的には何でもない起こりうる現象でも、唯一の意味をもった出来事として意味付けられている場合がある。人生の中の一契機として眺める現象は何かしらの時間的発展を持つ歴史の中では、価値や意味を持った出来事になり得る。内包的定義のように、

「私の歴史における契機に、運良く起こった(あるいは不運にも起こった)とある出来事」

がその現象のある主観にとってそれを特定する内容をもった文字列である。その人にとってはその内容ー意味がその現象に与えられている。

人によってその出来事は違う意味を持つ。多義的であるようでいて、そもそも主観が違うので、客観的な意味は確定できない。その人にとってはそういう意味や価値があって、別の人にはまた別の意味や価値がある現象だったというだけの話である。それぞれの主観にとってはその意味や価値を持つ現象はそれだけである。だからその主観から見て、現象が特定されているという意味では、内包的な定義と似ている。


ただし内包的な定義は客観的にそうであるという内容を要求するので、ありえるとしても普遍的な視点を要求し、その定義が定まらない場合が多い。

良いか悪いかという情報についても、「人間にとって害になるもの」というくらいの規定は出来るかも知れないが、人間という項を関係させない場合には良い悪いがない。だから語の意味も良い悪いという評価を欠いた「何であるか」にしかならない。

「何であるか」は理解できる。問題なのはそれが当人にとってどういう意味を持つのかだ。その生にとってどう意味付けられるものなのか、という事が大切だ。もっとも人間は共同体の中で生きていて、「我々」と語るときもあるので、その「我々」にとって何であるかも重要ではある。その時に重要になるのは、歴史でもあるが、だからといって集団が意味付けた内容をそのまま受け入れるのではないという事である。肝心なのはその人の生である。その人の主観でなければ意味は与えられない。その人が己の生にどのように向き合ったかが単なる現象に与える、見出す意味に現れている。


それでもナンセンスなのかも知れない。いや意味で満ちているのかも知れない。

思っただけ

思っている事の集まりがある。それがどう繋がっているのかが考えられていない場合、あるいは事実との関係がない場合、それぞれの思った事はただ思っただけの事でしかない。

実際に確かめて見て、思い違いだったと確かめないような、もしくは確かめる事ができないがゆえに思ったままの事もある。

おわりもはじまりもなく

「思考」という大層なものではないように思える。「思考」だったら
分るように説明しないと、誰も辿れない。辿れるように出来ていない
文字列は文章ではない。だが詩や散文は、それとして何かを浮かべさ
せる。


「思考」という大層なものではない「これ」は何なのかというと、
ただのモノローグのようなものだ。独り言。だがフィクショナルな
ものではなく、実際に続いている、ゆるい流れである。何かを説明
しようとして続けるのではなく、ただ続いている事を書いているだけ。


それに意味があるのかといえば、無いとも言える。「思考」として
読む価値はない。それでも、「思考」の介入がそこにないのかと
言えばそんなことは無く。だが何を「思考」しているのかはっきり
しない。「雑文」と言ってしまえばそれまでだが、「文」のつもり
もない。



漠然と、「ナンセンス」の領域を漂ってみる。



片付ける事ばかりではなく、使用する事も重要だ。何の為にそうするのか
分らないけれど使用している間に、何かを浮かぶこともある。意味のある
事を探しているけれど、何かやっていたら意味があったという事もあって
良いのではないか。かと言って、我武者羅にナンセンス物語を書くように
無理やりな設定から始めるのではなく、手近なところから転がしてみる
ような事も多分必要で。



本当に、何が言いたいのだろう。単純明快な頃よりも、複雑怪奇に
「それ」は動く。動いているのは「私」なのだけれど、「私」が全部
動いているんじゃなくて、「私」の一部が動くようなそんな感じの
事が多い。全てでそう感じるのではなく、一部で「そうかな」って
思うくらいのことだ。常に一部なのではないだろうか。



感情が文脈に依存しているのではないかと思った事がある。そういう文脈
で見れば、つまり歴史を辿って、その流れを追って行った場合はジーン
と来たりするけれど、別の視点から描かれたものを読んで同じ事を
了解する時、そこには先ほどのとは別の気持ちが出てくる。複雑さが
増した自分は、何とも言えない表情で何かを見つめている。



主に感情が動くかどうかが日々の関心事だ。喜びがなければ、何かが
廃れてしまっている。ちょっとしたことを喜べるかというと、何を
「ちょっと」と見るかで違う。「ちょっと」の事に、多くの事を
想像できるから喜びがあるような気がする。「ちょっと」した事
なんだけど、それを実現するためには「凄い」事があって、その
「凄い事」の凄さを了解できるから、「ちょっと」で十分なの
ではないだろうか。



「ちょっとのこと」は、言い換えると「些細な事」で、些細な事で
くよくよしたりとかは、ちょっとの事の中の何かを見ているから
なのではないだろうか。それは「ちょっと」ではない。見つめて
いるものが、それではないのだ。


「ちょっとの事」が「ちょっとの事」でない場合もある。相対的な
ものだ。全然動かない事と、ちょっと動いたでは、全く違う。ゼロ
ではなく、僅かにある。僅かにあれば、あるという事だ。微分小
という考え方は上手いなと思う。あるいは、測度ゼロではないと
いう事なのかも知れない。測ったら値を持つ。それなりに。




全体として動きを意識している間は、小さな動きは見えにくい。
けれど、全体が僅かに軋んで、全体を絶えず修正するのに精一杯
になっているようにも見える。全体が安定しているなら、小さな
方に集中しても何の問題もない。構え方の違いだろうか。

特別な事

具体的な「誰か」というわけではなく、きっとこういう事を考えていて
、こういう風な人がいるのではないかなと想像を膨らませて想定される
「誰か」に対して、何かが出来ないかなと思ったりもする。むしろ
特定の誰かに分ってもらいたいのではなく、時代が変わっても、いつ
もきっとそうなのだろうなと思える事を、あるいはいつか分ってもらえ
る人が現れるのではないかと思って何かを言う事もまた意味を持つ
のではないか。


基本的に言う事は共通の理解を通して理解できる事だ。コミュニケーション
なのだから、理解を絶するような事を述べたってしょうがない。とはいえ
全ての人ではなく、多分、誰かには伝わるだろうなと思える事を述べて
ゆくのでなければ、述べたい事を述べたことにはならない。



マイナーな事、的を絞った事は、一般的ではない。全ての人にではないが
ある人にとっては真実であるような事。



つまり一般的ではない事。特殊、特別、特定。
プロフィール

なんとかさん

Author:なんとかさん
ナンセンスな物語を書くつもりです。リンクフリーです。

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