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ATJ アナザー㉑

駄菓子屋からの帰り道、私と松木さんはお互いに微妙に話しづらい感じだった。気まずいというわけでもないし、非常に恥ずかしいというわけでもない。関係に変化があったのは確かだし、告白と同等の発言をしたので本来はもうその先にどうするのかを考えるべきなのだが、私の方ではその準備があまりできていないし、つまりそれは実感が無いという事を意味していた。


「何か変な感じですね…」


松木さんの方も多分同じ気持ちなのだろう。実際問題、関係に進展があったからと言って、これから続けてゆく事には変わりはないわけだし、接し方が激変するわけでもないような気がする。言うなればさっきの事は、心のうちに秘めていた事をお互い確認し、より親密になったというだけの話なら、程度の問題であって今までの延長線上である。そうではなく、特別な関係になるという意味なら、私から何かするべきなのだろうか?


「あの…Nさん?」


「は、はい。何でしょう?」


松木さんは静かになってしまった私を見て不安に思ったのだろう。何かを確かめるように彼女は言う。


「私達って、その…何というか付き合っているという事になるんでしょうか?」


私は少し考えた末こう答えた。


「そういう事になると思います」


「ですよね…。あのちょっと変なこと訊いていいですか?」


「何でしょう?」


「いつから交際ってスタートするんでしょうか?」


「普通は「付き合って下さい」に対して、「はい」って言った瞬間からじゃないですかね」


意外にも冷静な自分。他人事のように思えてしまう。松木さんは首を傾げながら言う。


「私達、まだ確認して無かったように思えるんですけど。けじめというか…」


松木さんが『私達』と言う毎に、私は彼女の事を近く感じてゆく。それまでと違って一人の女性として見てあげなければいけないのだなと思う。あまり意識はしていなかったが、彼女は私の目から見て可愛い。守ってあげたくなるようなタイプである。多分、そう感じる事は男として自然で、むしろ同じ人間の一人として見ていたのが珍しいことだったのかも知れないと今では思う。彼女は一人の女性で、しかも私よりも若い。「素直にそう思っていいのだな」と理解した時、「特別」とはどういうことなのか、分ったような気がした。



「松木さん、いえ可奈さん」


「はい、なんでしょう?」


私の口調が変わったからなのか松木さんは少し驚いている様子だ。それはそうである、私もそこまで積極的になれるとは思っていなかった。


「私と付き合って下さい」


一瞬何かを確かめるようにそわそわして、少し俯いた後、再び顔を上げる松木さん。その目には力が籠っている。


「こちらこそ、よろしくお願いします!!」


そう云うと松木さんは少しおどけて、意地悪をするように続けた。


「ところでNさん。私の事好きですか?」


自分らしいといえば自分らしいのだが、バカップルのようにいちゃいちゃするのは躊躇われたし、意地悪には意地悪で返す事にした。


「ここで『好き』って言ったら負けなような気がするので、たとえ『好き』だとしても私は素直には言いませんよ」


すると松木さんはニヤニヤして、


「へぇ~Nさんって本当はそういう人だったんですかぁ。『素直じゃない』。メモメモ…」


と私をからかう。私の返事に対しては満更でもなさそうである。こうやって自分のあまり見せない一面を見せてゆく事もこれからは自然に出来るのだと思う。私達の新しい関係はまだ始まったばかりだし、多分もっと松木さんの事を知れるのだと思う。むしろスタートなんだなとさえ思える。


「『可奈ちゃん』も遠慮ない人だったんだね。メモメモ…」


「え…『可奈ちゃん』…」


私も私で遠慮しない。松木さんは『可奈ちゃん』と言われてとても恥ずかしがっている。俯いて耳を赤くしている姿を見て、多分こっちの方が松木さんの素なのではないかと私は思ったりする。


「Nさんはズルいです…」



そうしている間に、駅が見えてきた。空は出会った日の帰り道と同じような赤い夕焼けだった。
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創作について

与えてくれたものは「いつでも何とかなるんじゃないかと思える力」だったのだろうか。
何の事はない。言葉と云うよりも生き方で示している。


そのように示されたものは、決して言葉でどうこう伝わるものではない。そういう事を
言ったとしても、力が出てくるわけでもない。むしろ見倣うように、それに続きたいと
思えるように、何かを続けている姿に私は勇気づけられる。執念のようなものだって、
「私には執念があるんだ」と言われるよりも、実際に何かをやり遂げるまで続けている
方がはっきり分かる。


言葉を用いて出来る事、創作をする場合、作品自体で何かを示すのなら『生きている』と
感じさせるような厚みが必要になる。厚み、リアリティー。実際にそれが起こっている
かのように思える事が出来るなら、ストーリーは自ずと生じてくる。それで何を示せる
のかというと、

そうだと思えたら

『不完全なカタチで残っているもの』。本来それは元の機能を果たさなくなった何かで、
どうしても不十分なものとしての扱いを受ける。だが、不十分なら不十分なりにそこから
何かを感じ取る事は出来る。曖昧なものを許容すると、完全ではない事のうちにそれなり
の意義を見出すようになる。正当な利用の仕方ではないかも知れないが、別な風にしてそ
れを眺め、それが生きてくる微妙な関連の中でそれを扱う。


あと一息のところで何かが足りない、その何かを補うように不完全なものは活かされてい
るのかも知れない。不十分な知、曖昧な了解、不完全な記憶。進む方向を決めるのは、
実を言えばそういう不確かなものの中にある、不完全な何かなのではないだろうか。


無ではない何かとして残る情報。最後は殆ど雰囲気というべきものなのかも知れない。
その雰囲気があったから何となく繋がってゆくような事も多分あるだろう。完全では
ないカタチで何かは繋がっている。それは厳密にいえばある物語の正統な続きではな
い。二次創作の中のとりわけ出来の良いもののように、それなりの位置にしか置けない
だろう。けれど、その効果は無ではない。


むしろ仮に続いたとしたらの話としてその先を想像する事の一つなのだ。もし、「本当に
続いたとしたら、そうなるのかも知れない」と思う事が出来たなら、何らかのカタチで
不完全なカタチでそれは続いている。それなりの位置に置かれながら、ある日、全く
新しい別の何かの一部としてそれが活かされたなら、『続き』ではないが、繋がっては
いるのだろう。

春恋し

陽射しが暖かくなってきました。外に出てもそれほど寒さを感じませんでしたが
一応厚着していて、かえって汗を掻く結果になってしまったようです。猫は久し
ぶりに洗ってもらって良い匂いがします。暖かくなると猫も気持ちよさそうで、
三者三様、自分の気に入った場所で寛いだりしています。


オリンピックが終わって、テレビも見ているのは旅番組ばかりで何となく旅行
でもしたい気分になっています。冬はなかなか遠出できないので、早く春に
なって欲しいですね。

日常レベル

『特別な事』に書いたこととまた違うレベルで、日常的な事について日記を書こう
と思いますが、確実なだけに内容に変化がありません。


『走ってみたい』と書きましたが、もし『特別な事』のように色々考えながらその
目的まで考慮するように『走る』とするなら、単純な『走る』ではなくなりそうな
気もします。単に日常のレベルで単純に思い立ったから『走ろう』と思うのではなく
、もっと先を見越して自分の将来に渡っての趣味にしたいから『走ろう』ではその
行為に込める意味も異なっています。


日常のレベルの物事というのは基本的に単純に思い立ったからのレベルであり、
そこには深い意味はないでしょう。あるとしても無意識的な要素が暗に関係
している程度の事です。それで単純な事をやり続けようと思うのですが、真面目に
、シリアスになり出すと、それに何の意味があるのか分からなくなって、中々
続けられません。そして日常的な事は些細な事である為にあまり印象に残らない
し、一々記録しようとも思いません。



久々に猫と一緒に眠ってみて、寝不足気味だという事くらいが話のネタです。
テレビもそれほど熱心には見ていないし、ネットの動画も完全に悪ふざけに
一生懸命になっている姿を笑うようなもので、日常の意識は猫の特に多くの
事を意味しているわけではない姿を見て、ぼんやりしている事の方が多い
かも知れません。


ちょっとだけネタを入れると、可愛いものを見ると集中力が上がるという話を
ネットで知りました。猫は可愛いので猫の仕草を見ている事に集中力が上がる
結果、猫話は充実しますが、作業の効率はそれほど上がらないような…

不確実だが、それこそ

自分が意識している事、集中している事の多くは確実な事、或いは確実と思われる事である。
とは言え知りたいと思う多くの事は、基本的には不明で、未知の事が含まれる事象にある。
意識は「今」、「ここ」にあるとしても、向かっているのは必ずしもそうではない場所である。


自分が何を求めているのかは漠然としている。一つや二つではないだろうし、数と云うよりは
数として現れる「結果」でもあるし、安定して何かを続けられる「状況」といえばそうなのか
も知れない。自分が求めているものに向かって世の中が動いているのかといえばそう動いて
いるように見える事もあれば、全然関係なく動いているように見える事もある。殆どの事は
偶然の重なりで自分が望む方向に偶々動いている時があって、同じ結果を期待する事もあるが
それがまた訪れるという事は曖昧な領域にある確率の問題であり、期待値も低ければ確率も
低そうである。


少なくとも自分はある状況を積極的に求めていて、世界という大きな視点と地域という身近に
感じられる場所についての情報を合わせて何とか良い時期を待っているのだが、時折期待値の
低さに絶望しそうになる事もある。それは決して高望みではないのだが、それを期待し続けて
待つ事に対しての疲れとか、気持ちの萎えのようなもので、要するに腐らずに毎日モチベーショ
ンを高く維持してゆく他ないという事が分っているという事の寄る辺なさである。少しは安心
できる情報があれば良いと思うけれど、そういう情報が殆どないというのも現実なのだろう。


その分かり切った現実の中でもう少し可能性を探り、活路を見出してゆくには諦めないという
事が必要になる。分別によって諦めて良い事と、諦めてはいけない事がある。現実というのは
容易に掴めるものではない。知らない事もある。ただ、知ろうとすることのエネルギー、バイタ
リティーが続けば辿り着けるかも知れない事も、何かが欠けていてどうしても粘れない事態
も起こり得る。実りあるところまで辿り着くまでの、精神力の問題だ。



オリンピックを見ていて、諦めない事の大切さを身をもって示してくれた選手に賛辞と感謝を
送った。だから自分が今出来る事をやはりしなければならないと思う反面、明確な目標がある
というわけではない状況で、どう頑張ったらいいのか分からずに空回りしそうにもなる。



少し前に、確実な事に集中している自分と、曖昧なものを許容した自分がいるという事を述べ
たが、確実な事に集中している自分の中からではとても始められないような事があるのは
事実なのだ。自分の能力、自分の今置かれている状況、今出来る事、そういうものから考えると
目指すものなど無く、淡々と毎日を過ごしている事しか出来ないのかも知れない。しかし、
もう少し曖昧なものを許容している自分は、これまで積み重ねてきた事に対してある程度の
自信を持っているし、一人だけではない世界で可能な事に少し期待を持っている。誰かがやっ
た事について一緒になって感動したり、勇気づけられたりして動けるとか、何か協力し合いな
がら出来る事を探すような世界の見方なら、まだその中にいた方が希望を捨てなくても済む
ような気もする。



自分に欠けているものといえば、やはりその不確実なものを実際に確かめる手段なのだろう。
多くは推測でしかないのかも知れない。顔も名も知らない相手との文章による対話なのかも
知れない。それでも何というか、ある程度は確かめている。ある程度の情報を頼りに、活動
を進めてゆく事を続けざるを得ないとはいえ、以前よりは何かが分ってくる。その繰り返し
の中で、どの程度自信をもってゆけるかが、活動の勢いそのものになる。

猫話8

『花』が呼ぶと返事をするようになった。自分が『花』と呼ばれている事が分かったという
事である。猿のような動きで、鳴き方も「きゃっきゃ」とだったのが段々「きゃーきゃー」
と伸ばすようになったのは、成長した証なのだろうか。


猫が自分の名前を認識するというのは当たり前にある事だけど、全く反応が無かった頃と
比べると大きな変化である。私が広い部屋でウロウロしていると着いてきて、あんまりに
も反応が良いので年上の『マロン』は躊躇いがちになって、結局『花』が近くで戯れて
いる事になるのがお決まりである。年長の『ハッピー』は大抵無関心に別の部屋で静かに
眠っている。怒りっぽい性格の『ハッピー』に対しては『花』が少し警戒していて時々
追いかけっこに発展する。追いかけられた『花』を心配するかのように『マロン』がその
後を追いかける。我が家でよく見られる光景である。


『マロン』の世話焼きお兄ちゃんのような性格は、恐らく賢くて優しいからだと思われる
のだが、『花』も『マロン』に対しては気を許している。人間の方にもこの二匹は懐っこく
、頭を撫でてあげれば喉をゴロゴロする事もある。


『花』だけは人間の肩に登ってきたりする。まだ身体が小さいから可能なのだが、肩に
乗って、更に高い所にジャンプしたりするのを見て、この猫は結構度胸があるのではない
かと思っていたりする。『花』の自己主張が強くなってきた頃だから、以前と比べると
何か存在感のようなものを与えるようになっている。


今も追いかけっこをしているが、何にしても仲良くやってもらいたい。

曖昧さを許容すると

確実な事の中でゆっくり考えている自分と、曖昧な事を分かった気になって先走って処理している自分がある。

許容する事によって自分はぼんやりしてゆくが、それなりに多くの事を扱えるのかも知れない。ただし確実に見えているものから判断する強い理性、集中に比べてそれは弱い理性で集中度も低く、自分がやったという意識に乏しい。

走ること

昔の事ですが、走るのが好きでした。長距離。


何となく動きにくくなって動いていませんが、スポーツも良いなって思ったり
します。走るという事はすぐに出来る事で、なかなか続けられない事でもあり
ます。今一度自分を見つめ直すためにも少し走ってみたりしようかなと思いま
す。

「ここ」

一つ前の「図式」が何となく常に頭の中にあるのは確かなようである。現実の空間の「ここ」はとある田舎とか、ある地域にある家とか、家の中のパソコンの前とか、把握の仕方によって色々情報を与える事が出来るが、「図式」が常に頭にある場合はどのような事を意味するのか?


例えば良くはない例だが人を階層化して把握しているとある人の頭の中では、階層が常に意識に昇って、階層の関係から人の位置を決定して見ている。物理的には同じところにいるけれど違う世界というのも、意識の「こちら」と「そうでないところ」が前提されている。それもシンプルな図式だろう。


今は価値観が多様な世界で、それぞれ価値があるものについて評価して、何が「一番」とか序列を決めてゆくとすれば、多次元のグラフでも作って位置づけるという作業を行えば、それなりに人に伝わる図式が得られる。ただしその図式は当人が意識しているもので社会全体で共有されているものではない。誰かが作った図式の中で、一番良い場所を目指すという事がレールの敷かれた人生だとするならば、基本的に個人の価値観はそれぞれの図式を与えているとも言える。


ある学問の図式を主にして他を見る場合、どうしてもその学問の作った世界観、秩序、図式の中で物事を考えがちになる。心理学的な知を前提にして組み上げた関係は、「異常」がネガティブな意味しかもたないが、「金」を主にして図式を組み立てる場合ならば、その「異常」が異常ではないという評価にもなる。一旦図式を受け入れた場合に、何らかの意味で良くない位置となった場合、その図式を目安に何か行動を起こして、「そこ」よりも改善してゆくという事もあるが、それは図式がはっきりしている場合に意味のある行動である。



自分の世界があるというのは、既に意識している図式があるという事なのかも知れない。その図式が十分であるとは限らないので、知によって改定しなければならない。だからこそ迷いはあるが、その図式において達成される何か自分だけの挑戦をクリアしたいという事があるならば、それは他者にははっきりと分るわけではないが、自分の中ではクリアした事によって満足になる何かである。


具体的にいうと、例えば今続けている「物語」(私の創作の「物語」)を完結させようという目標は、様々な価値観の中で組み上げられる他の目標の中の一つでしかない。この目標が部分でしかない世界観の中での「ここ」にとってはやや目標とはずれているのかも知れない。だがその目標を主とした場合の完結までの道は多分「直線」として見えていて、毎日続けていればいずれは到達できるだろうというような道である。常に全体にとっての「ここ」を見ているわけではない。当面やるべきことを直線的にあるいは曲線的に認識して、「ここ」と言って現状を確認しつつ進めるのが普通である。



ただ、意識している世界観においての「ここ」にとって「次」為すべきことを考えるというならば、先ずは今しているように、抽象的な「ここ」は一体どういう全体が見えているうえでの「ここ」なのかを言葉のレベルで言えるように努力するというのが必要になる。恐らく、種々多様な関係が同時に成立している上での「ここ」なのである。容易に描けるものではない。ただ、現実の空間の「ここ」だけではない「ここ」が意識されているのは確かである。
プロフィール

なんとかさん

Author:なんとかさん
ナンセンスな物語を書くつもりです。リンクフリーです。

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