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そらまちたび ①

それは空中分解しそうなほど不安定で脆いのだ。だが脆いなりに何とか繋がっていて、繋がっていると判断する者の目からは、確かにまだ何がしかのものである。

そんな何かを何と呼んだものか。何と何が繋がっているのだろう。




[そらまち]



空気の良い場所に来るとついつい大袈裟に呼吸してみたくなる。『ここではないどこかに行きたいな』と思って、ネットで調べてやって来た地方の田舎。確かに自分の住んでいる場所からすれば「ここ」ではないけれど、そうはいうものの全く違う世界ではなく、何かが同じで何かが違うそんな、僕にとってのフロンティア。ここに来た目的がそもそも「ここに来る」だけなのだから、到着した瞬間にそれは果たされているのだけれど、まあまあ歴史がある処だそうだから、少し観光でもしてみようと思う。


「街」と言えるほど建物がなくて、何となく「町」と呼ぶのが良さそうである。とりあえず町の人に話を聞いてみようと思った。駅の近くにあった神社の前のベンチに腰掛けている人がいる。


「あの…すみません」


それはちょっとお年を召した男性。おじいさんと呼ぶべきだろうか。ぼんやりしていたおじいさんは突然声を掛けられて少し焦っている。


「は、はい?どうかしましたか?」


「これはすみません。ちょっと観光で来ている者なのですがお話よろしいですか?」


「あ、ああ。はい」


僕の方を見てにこやかに笑顔を向けてくれるおじいさん。すぐにここの人は親切だなと思った。何を訊こうか少し考えていると、おじいさんの方から訊ねてくる。


「お兄さんもしかして『怪獣』の事でここに来たの?それとも歴史の方かな?」


「え?『怪獣』って何ですか?」


「まあ、ここ座って」


ベンチの隣を薦められたのでそこに座る。ちょっと前だったら『怪獣』という事で戸惑ってしまっていたけれど、10年ほど前から世界の各地に突如として出現するようになった『怪獣』の事はあまり興味がない僕でも常識として知っている。だが、最近怪獣についての色々な情報があり過ぎてこの町に怪獣がいるという話は知らなかった。


「あら、そんなに有名じゃなかったか…「ガララ」って言うんだけど」


「ガララ…ちょっと怪獣の事は疎いもので…どこに居るんですか?」


するとおじいさんはちょっと残念そうに。


「いや、今は居ないよ。飛んでっちまった」


「ガララって空飛べるんですか?」


おじいさんはしまったとばかりに苦笑いして、


「あ、説明が悪かった。あのね、先月でっかいヒーローがやって来て、ガララを引っ越しさせたんだわ」


「へぇ~そんな事があったんですね。知りませんでした」


「地元じゃ有名な話だけど、何ていうか歴史とか毎年のちょっとした催し物で観光客が多いところだけど、ここら辺見ると分るけどシャッター通りでしょう。やっぱり何か町おこしには何かないかってみんな考えてたところに丁度ガララが出てきたものだから、結構話題になったんだよ。ところが…」


「ところが?」


おじいさんは少し遠くを見るような目をして、ゆっくり話し始めた。


「まあ何て言うか、ちょっと恥ずかしいんだけど地方の財政の問題と住民の気持ちの問題でね、ちょっと向こう最近道路を舗装した痕があるんだけど、ほら、怪獣が道歩くと荒れちゃうでしょ?それとちょっとだけだけど「迷惑だ」って愚痴る人がいてね、それで市としては退治する事も考えてたみたい」


退治とはいうが、それにしたってお金が掛かるのは間違いない。話を聞いているうちに、小さい町だが結構大変な事があったんだということが分って、僕は何となく町に対しての印象が変わってしまいつつあった。ただ退治がされるとなると全国のニュースになるし、怪獣との戦闘のシーンはどうかと思う事もあるがネットで多くの再生数を稼いだりするくらいエンターテインメントになっていて、そこから推理すると退治されたという事実は無いようである。

「でも退治されなかったんですね」


すると少しだけ嬉しそうに、


「そうそう、なんか町の若い人とかがアイディアを出して、ヒーローさんに広くて迷惑にならないところに運んで行ってもらったんだってさ。最後はみんなで成り行きを見守ってたよ」


この話を聞いて僕は少し感心してしまった。おじいさんが嬉しそうなのは、多分他から言われたわけじゃなくて、自分達、特に若い人が頑張ってくれたという事だったのだろう。


「でね、ここからが面白いんだけど」


「何です?」


始めての土地の事にすっかり興味を抱いてしまいおじいさんの話に聞き入る僕。


「そん時に動いた若い人の中に、この町の、まあいわゆる古くから続いている名家の令嬢がいてね」


「はいはい」


「その人が、そん時に知り合った高校生にそれがきっかけでその子にお熱で、話題が一つ無くなったけどこの町の有名人の動向を、生暖かく見守っているわたしらおじさん…てね」


「へぇ~」


まあ何というかそれはゴシップというのか、プライベートで詮索するのは野暮だけど何となく素敵な話であるようにも感じる。始めてここに来た僕にしてみれば、正直あまり興味がないけれど、町のロマンスを話の種にするのも悪くはないだろうなと思う。


「この話は内緒だよ!もしそれらしい二人がいたら、見守ってあげて」


「はい。分りました」


その後、この町の名物とか歴史ある建造物とか、イベントなどの話を聞いてベンチを立った。


「ありがとうございます。じゃあちょっと城跡にでも行ってみます」


「はいはい」


おじいさんの話にも出てきた城跡だが、ネットのウィキペディアの情報でちらっと調べただけだが、ここは昔かなり歴史ある城下町だったそうで、有名な国内の戦争の時に落城してしまって、後年再現されたものらしい。歴史はからきし苦手で、あまり詳しくないのだが常識的な感覚で「へぇ、そうなんだ」とその時は特に何の感傷もなく思ったのだが、実際に見て見たら何か感じるものがあるかも知れない。


そこからだと少し距離があるようなのでバスを探したが、本数が極端に少ない。待ち時間があるので近くの和菓子屋で甘いものをちょっと食べた。
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素直に挑戦

素直でありたい
挑戦したい

素直に挑戦したい時がある

あとがき

思わずシリアスに考えてしまって、何というか自分の中の「シリアス」に考えてしまう
部分だけが前景に現れているような何かを書いてしまったのですが、これは微妙に小説
的な、だからこそ何かが足りない、行き過ぎている一つのモノローグです。詩的意識と
でも言うのか、それ『も』あるけれど、それだけじゃないっていうのが実際の所本当
で、ずっとこの意識だったら多分すぐに限界が来てしまうかも知れません。そういう
意味で、ある時には本当のように感じられるけれど、さめてしまうとそればかりじゃ
ないっていう事に気付くわけです。


肝心のその実際の本当のところはだから、こういうのを読んでそれとのギャップによって
何かを気付くという意味では、今こうして普通に書いているところだと思います。
それは容易に言葉に出来るものではありませんが、こうやって具体的にそれとは違う
ものを書けば、そこからの比較である程度何かを言えるようになります。


実際の自分はそんなに雄弁ではありません。でも時折、こんな風な詩的情緒に浸って
何かを見ている時が無いわけではありません。ただそれを続けるのは確かにしんどく
て、普段は気の利いた言葉も浮かばないような感じです。こういう言い方をするのは
照れ隠しなのではなくて、何よりも実際の自分を冷静に見ようとしているからなのだ
と思います。


正直言うと、ああいう風に書いたものには自信が無いのは確かです。自信が無いのだか
ら、フィクションとでも言わないと書ききれないような何か。多分、そう言うのが
正しいでしょう。

大切な事

前にある事は分る筈もなく、誰かが行こうとしている方向なんていうのも。『それって何ていうか、
何ていうかだよね』って同意を得たくなる。分りはしないけれど一方で漠然とこうするんじゃない
かなっていうことは予感していて、リアルな方の事情もあってそう思う方には進めないかも知れな
いし、予感は人それぞれ違うのだろうけど、少なくとも予感する自分は何かを追い始めている事は
間違いない。


追っているものの先に行こうとしていた。追っているものの先に何も無くても、それはそれで良か
った。けれど現実で確定してゆく事がある意味で限界とか、実際の事を語り始めて、何でもかんで
も現実的な思考になってしまう。ただ少なくとも、人々にはこうなって欲しいという願いがある
わけであって、それが強ければ現実的には無理でも、その方向に動きだしている事もあり得るだろ
う。動きだ出うとしている事はあるだろうし、動き出そうとしていた事もあっただろう。


その向こうに常に行けるわけではない。いけなかったとしても何かの痕が残されている。その
痕は何かが達せられなければ無価値に近いようなもので、でも意図だけは感じることは出来る。


感じられた予感は、その意図がミメーシスのように自分の中に息づいているからなのだろう。
その予感を頼りに、「こうするであろう」という事を想像しながら、全く情報がないときとは
違う判断を行う。合理的ですらなく、ただそうしたいようにするであろうことを考慮するような。



だけどそれもまた、多分本当ではないのだ。ただこうありたい自分の姿とそれについてゆこうと
する本当の自分が、素直に肯定できるものの先に進む事しかない。その先にあるものがあろうが
なかろうが、自分が素直に肯定してきたというそれまでの確かな感覚がそれ自体で一つの満足
になるのだ。期待とか、不安とか、そういうものは自分を見失わせるものとも言える。自分が
肯定して行った先に何があるのか、無いのか、ある意味でそれを確かめたのなら一つの結論
だろう。


そうやって進める強い人間に私はなりたかったのである。追ったわけではない。ただ自分で
考えて自分で出した結論だから多分、「私」はそこに進めるのだろう。「自分」なんて、
多分大切な事を続けるように一生懸命考えた結論の集合でしかない。だから変わるだろう
し、駄目な場合は戻って、自分を変えるしかない。その都度の自分で肯定し続け、その自分
が続くなら続けられるだろうし、大切な事も続くだろう。そして、いつの日にか、その
「自分」が大切だと思えるようになったら、「自分」も「大切な事」も続くのかも知れない。

ノリ

毎日感じている事を全て書こうと思ったら一苦労だ。ただそれでも具体性のある事を
言おうと思ったら、その細々としているものを無視するわけにはゆかない。

社会、と言っても実際はそれほど社会に貢献できるようには生きていなくて、とにかく
自分が出来そうな事を見つける毎日である。けれど間違いなく社会の中にあって、
特に地域で生活しているという実感が強くなり始めている。広く世の中を見通せば
ローカルな事に集中する理由もそれ程ないくらいに、毎日のネタは首都近辺に集中
している。人が多いのでそれは仕方のない事かも知れない。


細かな事に集中できない理由が安易に語れるネタがネット上ですぐ見つかってしまう
からでもある。そのネタはほとんど読むだけで着いてゆく事もできるし、むしろ現場
がネットのあるコミュニティーでのやり取りだから、それに着いてゆくにはそれを
読んたり見たりし続けなければならない。具体的な場所がないだけに地域性は殆ど
ないに等しいが、それでも首都のような代表的な場所はほとんど予備知識として持って
いないと着いてゆけない事もある。





実際、暇なのでそういうネタは結構知っている。使わないだけで相当量調べて自分なり
に面白いものを見つけてはいる。それは一般的で、常識なのかというとそうとは言い切
れない。自分のブログとそのネタの違いは共有されている数の問題だろう。数の暴力
というか、数の力で一人で考えるよりもしっかりしたものが長時間を掛けて錬成されて
いっているように感じるが、『し尽くされる』と廃れる事も多い。『ミーム』という
言葉で言い表される何かは、確かに独特の文脈で独特の進化を遂げるが、「進化」と
見なすのは常に人であり、その変化に肯定的な人とそうではない人がいる。


暴力的な組み合わせと言うか、断片的な情報だからこそ他の多くのものと組み合わせる
事ができて、それがとんでもないイメージや情報性を持つものとして語られるが、
一枚絵に与えられる複雑な『設定』を真だと見なした場合の異様さは暴力的とも
言える。そういうネタを知っていたとしても、それが一般的な感性と言うか常識的な
視点にとっては、普通の分脈で処理されるから印象が違う。特殊な同じ情報を共有して
いる人がいるからこそ、それが前提できて、イメージが発展する。





そういうイメージについて自分のブログで語りたり始めるにはまだ一般的でも何でもない
ネタである。引き出しが違うというか、「ノリ」が違うのである。幸い、もう一つの
ブログ「スローペース症候群」の方で「ノリ」について考えたことがあるからここにも
移植する事ができるけど、自分の中で同じ「ノリ」の中で行われたことの先になければ
別のノリで行われたこととは気分として一致しなくて、どうしてもそれを肯定できなく
なることがある。真面目に考えたのと適当に考えたのを一緒にする人がいないように、
真面目に考えた瞬間に不都合に気が付いて駄目になるようなネタが存在する。科学と
フィクションをごっちゃに出来るわけがない。



多分、自分は幾つかの「ノリ」をそれぞれ進めて、その「ノリ」が一般的な感覚から
でも肯定できる事をどこかでは望んでいるのである。ただ、妥協せずに、自然な感覚
で繋がってゆく事が前提条件である。同じ全体的な関係、印象の中で自然にその場が
与えられているような時に、初めてその「ノリ」で行われたものは肯定される。
考えてみれば「サブカルチャー」と言うのは、「メイン」が肯定し切れなかった
ものだろう。サブカルチャーの「ノリ」で始めた事が堂々と通用するような状況
というのはかなり珍しい。ローカルと全国の関係も似たようなものだ。が違う事は
違う。



自分のブログの事でも、やはりこれは「特別な事」であって、「ナンセンセンス」に
するには抵抗がある。どちらも違う「ノリ」なのである。ただ一瞬どちらでもない
と感じる事もあって、もしかすると関係している部分があるのかも知れない。
「ナンセンセンス」のシリアスで発展性の少ないところも、やはり中核として
「特別な事」に入っていて、視野は広がっているが限界も中核の問題にある。
さらに言えば、「特別な事」よりももっと一般的に言える事に留まって始める
普通の話題があるけれど、「特別な事」で書いたものを前提するように書くと
すればそれはかなり困難だろう。やはり「ノリ」が違うし、十分な議論を経て
なされる発言と個人的な考えはやはり区別しなければならない。



最初に書いたことに戻ると、日常の細々とした事は一般的に価値がある事の中では
かなり特殊で「何故それに注目するのだろう」というような事である。「手近な事に
興味を持つ人がいないだろう」という判断は恐らく正しい。社会などまるで感じない
実際に起こっているだけの事である。だが一方で、その何でもない事を説明しよう
と思ったら相当苦労しそうである。そういう意味では「ローカル」のノリに徹した
もう一つのブログはある意味で一つの答えである。地域的なところからの発見は
日常生活とも社会とも繋がっている。恐らくは、この「特別な事」はそのレベルの
事の翻訳なのだ。

苺の友達

目の前に宝の山があるとする。普通なら飛びこまないわけがないのに、勘繰ってしまって躊躇するような人だったら、多分友達だ。それってどうでも良い事なんだけど、どうでもいいというばかりでもない。つまりどういう事かと言うと、それなりになにかを示している。


ただビールを飲みたいと思った。今日はぱっとしない一日で、特に何があったわけでもないのに集中力がなくて、ちょくちょくケアレスミスをした。帰りがけ、甘ったるい匂いを放つ洋菓子店の前を通ったら妙にお腹が空いて、『苺のタルト380円』を2つ買ってしまう。甘いものがそれほど好きだというわけでもないけれど、真っ赤な苺が視覚に訴えてきて、「この日にワタクシを召し上がらないと次はなくてよ」と言われたような気がしたのだ。


家で包みを開けて、しばらく眺める。


「美味しそうだ。でも食べるのが勿体ない」


夕方のテレビでは「焼き肉」のチェーン店に取材に行ったキャスターが脂が浮いている焦げ茶の物体を口に運んで「うまい」と一言。でもこっちだって負けていない。フォークを入れて、一口サイズにして持ち上げると甘そうな蜜が滴る。


「焼き肉ばかりでもないんです、世の中」



久々に食べたタルトはまるで初めて食べた時のような感動を与えた。世の中にこんなに美味しいものがあるのなら、その為に生きようと思ってもおかしくはない。おかしくはないけどちょっと大袈裟である。まあそれはそれで、気が付くとあっという間に2個目に手を出そうとしていた。その前に冷蔵庫から取り出していたビールで喉を潤していると、玄関のチャイムが鳴った。誰だろう?こんな時間に。ドアを開けたが、そこには誰もいない。「おやっ」と思って廊下に出てみると、フードを被った人が忍び足でそろりそろり向こうに行こうとしているのを見た。


「あの」


思わず声を掛けるとその人が振り返って気まずそうに笑っていた。


「えへへ…ダメでしたかね」


何が「ダメ」なのかよく分からなかったが、イタズラをしたという事ならそれはダメである。


「私はその…不審者じゃないですよ」


明らかな不審者に不審者じゃないよと言われても信用できるわけがない。


「じゃあ何なんですか?」


と訊くと、ヘラヘラ笑いながら


「幸せを届けに来たんですけど、面倒くさくてやめたところです」


「は?」


思わず威圧的な調子になってしまったので、フードの人は一瞬ビクッと驚いたようで、それを誤魔化すように言った。


「いや~…その…信じてください。本当に本当なんです」


「信じるも何も意味不明です」


こういう風に答えるのは当然である。


「じゃあ証拠を見せます。ほら」


と言うと、その人はフードを取った。その下はセミロングの髪で、背丈も考慮に入れるとどうやら女性だという事を知らせたかったようである。確かに声もやや高い印象があったので、性別については判明したとして良いだろう。問題は、女性である事と「幸せをもたらす」という事がどう関係しているのだろう?


「あの…信じてもらえないかも知れないけど、私『苺の遣い』なんです」


「苺食べたいの?」


「いえいえ、そうではなく苺の何というか、代弁者なんです」


「意味が解かりません。頭大丈夫ですか?」


するとその女性は急に目に涙を浮かべて今にも泣きだしそう。


「いつもそうです、みんな私が本当の事を言っても信じてくれないで、頭がおかしいっていうんです」


非難がましい女性の言葉に、少し心が痛み仕方がないので少しだけ話を聞いてあげる事にした。


「泣かないで…その話は聞いてあげるから」


「あ…優しいんですね、ありがとうございます」


袖で涙を拭った彼女は、つかつかと歩み寄ってきて「では失礼します」といって家の中に侵入してきた。これには呆気に取られたが、話を聞いてあげると言った手前、追い出すわけにもゆかなくなった。甘い。


「あー、ありました。これです、この苺さんが」


「タルトの事?どうしたの?」


すると彼女は驚くべきことを言った。


「私、この苺を食べる人にどうしても幸せを届けたくってやって来たんです」


「何故に?っていうか、どこから来たの?」


「その、食べてもらうのが嬉しかったんです。…農場から来ました…」


「農場?」


最初ピンと来なかったが、苺農場の事かも知れないと思い至ってそこで何となく了解した。


「もしかして、あの洋菓子店に卸してるの?この苺?」


「はい。実はそうなんです。今日ちょっと店の様子を窺ってたら、その商品が売れたのを見て、こっそり…」


「尾行しちゃダメでしょ。駄目でしょ」


「はい…すみません。でもどうしても感謝したくて…」


「非常識ですね。非常識過ぎて、呆れています」


「う…そんなに意地悪しないでください…」


するとまたしても目を潤ませている。「全くこういう人は得をするな」と思った。


「いいですよ。赦します。で、感謝って何をしてくれるの?」


「う~ん。勢いで来ちゃって何も用意していないんですよね…あ、どうすればいいですかね?」


「全く、本当にあなたって人は…女同士だから良いものを、そんな無防備だと危ないですよ」


「よく言われます」


にっこり笑顔。イラッとするが、なんとなく面白いような気もする。そうだ。


「こうしましょう。折角だから私と友達になってよ」


「友達ですか?」


「お酒一人で飲むのちょっと寂しかったところ」


「あ…こんな時間から飲んでたんですか?しかもタルトとビールなんて信じられない!!おじさんみたい!!」


「うるさい!!もうあなたみたいに可愛い盛りは過ぎちゃったんだからどうでもいいの」


すると彼女はにやにやし出した。


「タルト美味しかったですか?」


「…まあまあね」


「私達、いい友達になれそうですね!!」


なんでそう思うのかは分からないけど、何となく分ってしまうから不思議である。

だらだら

一つ前の記事で書いているうちに気付いたが、『ネット』の位置づけが難しいのだろう
と思う。変に期待をしてしまうわりに、過去の経験で云うとそれほど大きな事にならな
い。まあそれはテレビについても同じことが言える。テレビで色々な事物を見るけれど
、それが直接的に関係するように感じていてはキリがない。興味のあること、関心のある
事に注目して、それがとても大切な記憶とか体験のように感じる事で自分の中の何かは
動いてゆくのだけれど、それがそこまで重要になるのは他の不特定多数の人と共有され
ている情報だからであろう。話題になるから知っておいた方が良い。場合によっては
前提とされるから知らなければならない。


『知るべきこと』はどこで知ることが出来るのか?知りたいと思っている事にどうやって
辿り着けるか?今ならGoogleで一発なのだが、詳しく知りたいと思う場合は本を読んだり
する事も必要だし、自分で考える事も必要な場合がある。


おそらく世界と自分との関係で言えば、確かにそうあると思えている世界の大枠は分って
いても、具体的に動いている様を感じる事ができないという事が不満とか『まだまだ』と
思うの原因なのだろうと思う。外国は間違いなくあって、知識としていろいろ知っている
し、ネット上ではダイレクトにその人達の意見を読むことも出来る。だが、実際に会って
話してみる事はなかったりするわけだから、相互理解と言ってもかなり間接的で、予備
知識を多く必要とする。その過程は場合によってはかなり疲れる。その労力よりは直接
見てきた方が早いのではないか。当然そう思う事もある。


やはりある面においては自分で直接「出向く」という体験が必要となるのかも知れない。
またこれも言える事だが、ネットで有益な事を言うためには、実際に自分が何かをして
いるという事も必要だ。

自分

自分もその中に組み込まれている『世界』の事を考えると気付くことがいくつかある。
それは『世界』についての自分の関心事に対して自分が占めるのことの出来る割合が
低いという事である。

そういう意識はごくごく当たり前だろう。自分が動かせる事や物は、自分の動かしたい
と思う事や物に比べれば小さく、瑣末になってしまう。頭で考えるほどには、事物は思
うように動かないわけで、行動に移さなければならないという事も分ってくる。だが
行動したとしても結果が伴うというわけでもない。


整理をすると見通しが良くなる。何が可能で、何が不能なのか。現実的に起こせるアクション
はどういったもので、その効果はいかばかりか。過去の経験と知識から、大体可能な
事は想像出来る。科学技術が進歩して可能になった事を考え併せても、その実用性で
実際の生活は概ね『普通』と思えるところに収まっている。これからの事については
個人的にはあまり期待していないというのが本当である。といっても、それは幼い
頃に期待していたものと比べて、「あまり期待していない」のであって、現時点で
次にありそうな事を期待する場合は、それなりに求めている方向に期待している。


具体的には地域が少し活性化されるとか、面白い事が身近で起こったりだとか…



ただそれもどうなるのかは分からない。少なくとも今自分が出来る事を続けるしかないのは
分っている。それがその期待している事に何か役に立つのか?と言うと多分ほとんど
影響がないだろう。



ネットの力を過信してもいないし、全く無だとも思っていない。こうやって自分の考えを
発信するのは「何もしないよりは」と思うからだが、ある意味で具体的には何もできない
という事を表わしているとも言える。ネットも『世界』の一部には違いなく、ネット自体
も広大である。


多分、『世界』というものの捉え方が変わるのがネットで何かを書いている間である。自分が
生活している空間を中心とした目に見える変化を基準とした場合は、ネットはその空間に
対しては目立った変化を与えない事が多いけれど、読むという行為は読書について言われて
いる事のように読んだ人自体を変える。何でもないちょっとしたアイディアが読んで伝わる
ようにされ多くの人に共有されれば、ちょっとした変化を起こしているとも言える。それが
目に見えないだけで…


と希望を持った言い方をすれば可能だが、それが具体的に自分にとってどういう価値を持つのか
については曖昧な部分がある。漠然と良いと思っている事を言うけれど、それをするメリット
は自分がそれで満足だという事だろう。ある意味で、自分にも跳ね返ってくるような事を望む
のは期待が多過ぎるのかも知れない。


とりとめがないので一旦ここで切る。

世界

世界を間違いなく知ろうとしている。「世界」という言葉の意味が分っていても、
その意味通りのものを思い描こうとしたり、扱おうというようなカタチで使用
しようとするならばある意味で困難な何かである。世界と自分を引き離すように
見る場合の「世界」と自分がその中の一要素であるように見る『世界』とは違っ
ている。


リアルに思い描くとすれば、世界があって、その中に自分が居るという状況を
思い描かなければならない。後者の『世界』は正直に言ってしまえば自分をも
巻き込むような言葉だから、自分が変わるだけで『世界』そのものが変わるよ
うなものを思い描いている。ハイデッガーが言ったような使用で世界―内―
存在というものを語る為に『世界』という言葉を用いると、その『世界』とい
う語を使用しているだけで自分も考慮している事になる。


だが関心の度で言えば「世界」の事も重要だが「自分」の事も重要である。これは
世界と自分を引き離した見方の「世界」という言葉だが、広がりのある世界を考慮
できる余裕がないほど自分に重点が置かれるような状況だと、実質「世界」という
よりは「自分」が意味されている『世界』の可能性もある。


世界は変化している。ただし、その変化の様子は見る人によって為す意味や重要度
が違う。他ならぬ「自分」と「世界」の関係において、自分と世界がどこかに境界
を設けるように世界を見ているところがあるとするなら、「自分」にとって良い
方向に変わるなら良い方向に変わったように見えるが、その変化が他の人にとっても
良い変化であるとは限らない。価値観の問題である。「自分」も変化するので状況
はより複雑になる。自分が変化して、評価や価値、意味、重要度が刻々と変化して
ただそのままでいる時よりも世界の評価が安定しない。


世界の変化に比べて自分の変化がどうとか言った評価は恐らく不能だろう。宇宙的な
見方をすれば「世界」は地球上の変化がどうとか言ったことは殆ど無関係だが、
人間が生きているこの地球がかけがないのないものであるという重要性を見ればその
地球の変化が大したことがないと諭す視点はそもそもズレている。人類にとって重要な
ものは重要で、個人にとって重要なものも重要な事には変わりないのだ。だからと言って
宇宙に対する知識がまるでないのも違っている。ある程度の限界を知るという意味で
知ることは必要である。その限界の中で自分達が生きていられる範囲を了解する。
生きている事がまず必要なのだから、その範囲の事を主に考えてゆく事は当然と言えば
当然である。自分よりも広い範囲で生存できる者があったとしても、それは知識として
は必要かも知れないが、重要性としてはやはり違う。



重要性が違う事を整理する事で、視点が一見すると身近なものばかりになってしまう
けれど、「ここ」、「その場」に合うように関心を限定しないとまず自分が立ち行かなく
なる。もっとも、仮に宇宙の最果ての事がとても身近なところに大きな影響を与える
ようなシステムだとすれば、「ここ」ばかりではなく「遠く」も思考しなければならない。
実際、地球環境の話は「ここ」だけが良ければいいという話ではなく、常に「遠く」も
考慮に入れるような必要もある。地球の事として考える視点も必要なのは間違いない。



現実的にはその視点があったとしても、その視点で良いと思われる事を実行していた
としても、更にその先の空間で起こっている事によって上手く行くとは限らない。宇宙の
事もある程度は情報が与えられているだけに、知っている人にとってはそれも重要な
事なのかも知れない。




「かも知れない」という仮定の話をしていてもしょうがない。恐らく自分の論がどこまで
の広さで通用するものなのか謙虚に認めて、出来る事の中に集中する事が最善であろう。
言ってしまえば、それが殆どの人にとっての世界である。自分の関心事、重要性のある
事の総体の中で実質的に何も起こっていないのならば、世界には何も起こっていないのと
同義とも言える。ただ、その場合にいう世界は限界もあれば、狭さもある。見えていない
ものもあるのである。



最初に見た世界が全てではない。そして想像の果てに広がる世界ほど自分が実際に生きている
世界は大きくない。世界は確かにそこがあると確信できる程度に広がっていて、それは広がって
ゆくし、想像とか曖昧な了解の中では潜在的に多くのところを語っている。何も有効的な
処理を行っていないようであって、自分が動きを追える程度の広さの世界を意識して何かを
語っている。その世界を意識しているものにとっては、その言葉は何らかの意味を持つ。ただ
それでもやはり具体的な情報なしには、その世界で本当に生きている事にはならないかも
知れない。その世界で生きているという実感のある行動が実際に、そして具体的にとれるように
なって初めて世界は内容を持つ。

進む方向

好きになった方に進む事はそれ以前に好きになったものが確かに息づいていることなのかも知れない。
プロフィール

なんとかさん

Author:なんとかさん
ナンセンスな物語を書くつもりです。リンクフリーです。

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