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実際の

現実的な思考をする度に、常にエネルギーの問題を考えなければならない
と感じるのは当然だと言えます。いくら精神的な事の価値を重視したとし
ても、物理的な量として確かに実在しているエネルギーがなければ世界は
成り立たないという意味で、現実的に可能になる事としてはお金よりも
もっとはっきりとした限界を与えているのがエネルギーです。


思考においてはアイディアが何よりも大事かも知れませんが、「動く」、
「動かす」という事においては当然エネルギーが必要となり、単純に
量がなければどうしようもないという事があります。勿論アイディア
によって、そのエネルギーの有効的な使用法が見つかる可能性もあり
ますが、実際のエネルギーが増えるという事はありません。


フィクションの中で可能になる事が起こり得ない一つの理由としては
エネルギーがそう容易く扱えるものではないという事があるかも
知れません。人間の身体の強度も、普通威力がある一撃を食らえば
破砕してしまうでしょうし、物理的リアルはご存じの通りシビアです。



ある物事の価値を認める事において、物理的な限界をよく知っておく事は
重要かも知れません。その限界の中で、素晴らしい事が行われるという
事に対してちゃんとした価値を認める事が出来れば、自然と偉大なものは
分るようになります。
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変えたいという事

やりたいことというのは最初から言葉で言い表せるほどはっきりとして
いるわけではなく、やりたいようにやっているうちに、はっきりと何が
したいのか自覚するような事もある。


私はそういっていろいろやっているが、結果的にそれは「自分を変えたい」
という気持ちから始まっていると言える。


やりたい事として「自分を変えたい」が適当な答えになるわけではない。
具体的にしている事によって、自分が変わってゆくかも知れないという
のが本当だ。

感情と思考の

心の中にもやもやとしたものがある場合、それは思考だけとか感情だけとかそのどちら
でもなく、思考と感情が入り混じった何かであるのかも知れません。感情は何かを積極
的に選んで肯定したり否定したりします。それは一般的には合理ではなく、とにかくそれ
が「嫌」だからとか「いい」からとかという理由で選択されたもののはずで、思考が
混ざる場合にも、合理的に考えれば何かがどうしようもない事として選ばれている時点
で、独特のなにかとして偏りのようなものが感じられます。


論理的に確かな事、事実を前提としてそこから考えられることの中で収まっていて、それ
以上は仮説的に考えるに過ぎない一つのリズムというか立場からは、感情的に「私がそう
思いたいからそうだ」と結論づけて更にその先を進んでしまうような動きを完全に肯定
は出来ないものとして扱います。それは感情的に了解できるけれど、だからと言って
そうであるとは限らない、という具合に。


「○○が△△であると信じる」という「信」の部分とも似ているようですが、感情が
いつもそう信じているわけではないけれど、一時的にどうしようもなくそう流れてし
まうのに比べると、まだ分かり易いかも知れません。

らしさについて

私が「○○であろう」としている場合、私は自分が何であるかの前にそれを
選んでいる事になります。「男らしく」、「人間らしく」、「大人らしく」。

そのらしさを選ぶという地点において、きっちりとそれを選べているとは
限りません。一時的に何かが良いと思って、それらしくあろうとする、
それらしくあった先で行動をする。けれど、次の瞬間には既に迷いが
生じていて、その「らしさ」に自信を失うような事もあります。


人間は比較的可塑性がある生物です。ニューロンとシナプスの同士の結合
の様子が微妙に変われば、行動の様子も微妙に変わってゆくでしょう。


「意思」とか「意志」の部分で、「らしさ」を選択し、維持する事も可能
ですが、結局のところは現実的に維持する事が可能なものに対しては維持
出来ますが、周囲の状況とか条件が良い方向になっていない限りにおいて
実現できないような不安定な「らしさ」は常には不能です。



「あろう」という選択について、どちらとも言えないような判断を許容
するなら、「こちらもこちらも選んでいる」という優柔不断にも見える
状態でいる事になりますが、


「選び切れない」


というのも本当でしょう。そして、現実の微妙な判断は選びきってはいない
状態の方が都合の良い場合があります。現実的な判断をしようと思えば、
色々なものが複雑に混じった末の、ある行動としか言いようのない行動に
結実する事があるでしょう。


例えば「男らしく」ありたいと思うかどうかの強さ、度によって、「男らしく」
ある事を選ぶかどうかに違いが出るように、「らしさ」の前に、「らしくありたい」
かがあるでしょう。


言葉で表現出来るほど、その感覚的なものははっきりとしていません。数値化
できるかどうかも分りませんし、数値として説明して、ちゃんと伝わるのか
というとやはり微妙です。


行動によって、起こしたアクションによって、その感覚的なものの現れを
見るしかなく、分節化した行動の「どこまで」を実現するかでその度が
分るのかも知れませんが、それほど分節化していない単純な行為の中に
その微妙な感覚を読み取れるかどうかは人それぞれです。



小説の場合は、その微妙なものを意味づける事も出来るかも知れませんが、
やはり行動となって現れなければ、形容詞を続けて使用して、その経験を
した事のある人だけに通用するような絶妙な言い回しでしか言い表せられない
様子を具体的に記述するしかありませんが、文化的に許容されたコードを
越えている意味付けについては、一般的な視点から「ナンセンス」と見えて
しまう惧れを免れません。



要するに身振り手振りの一つ一つに何かの現れを見れるようになるのは凄い
かも知れないけれど、それが現実に物理的に与える影響は僅かだという事実
を忘れてはいけません。勿論主観的には一歩が偉大な一歩になる場合も
ありますし人それぞれ、その一歩に与える意味や認める価値は違います。
ですが、価値の交換体系においては、質だけではなく量のように他者にも
通用するようなはっきりとした違いとなって現れなければ現実的には
適用できません。



実際的な問題として語れば、私は手を動かしてキーをタイプして文章を書いている
だけで、それが社会的にも重要なものとして認められるかどうかでいえば
殆ど無意味でしょう。感情的に何かを訴えるもの、思考に対して何か貢献
するものとして見られた場合ですら、それを物量的に表現する事はほぼ
不能です。



だからと言って完全に無意味になるわけではないからこそ書くわけですが、
書いているだけで仕事になればいいですが、そういう風になれるとは限りません。
何だかんだ言って行動が大事なのだとすれば、行動といっても、特殊な
意味の行動ではなくて社会的に価値のある行動に自らを合わせてゆく必要
があります。比較的大まかな文脈で。



感覚的な質の表現である行動は分節化され過ぎても良くないし、大雑把過ぎ
ても良くありません。大して意味のない行為で自己満足してしまえるような
独自の表現を作ったとしても、それが他者に受け入れられる、他者にも使用
してもらえる、そういう条件がなければ表現になりません。社会的なコード
、一般的には「言語」を通じて表現できる事を追求するのも良いですが、
肉体的な作用も使わなければ現実が成り立たないのも確かです。



己の中に有している感覚的なものは、いずれ何らかのカタチで表現されて
ゆくものですが、「らしくある」という選択についてはその表現のスタイル
を選ぶという意味で重要です。ですが、「男らしく」、「大人らしく」と
いう価値を伴ったものになると、どうしても社会的な関係の中で完全には
選びきるという事が出来ないまま、最終的には変わってゆく自分らしさ
の中で揺れ動いているのかも知れません。

譫言

二つの平面がある。このブログで言えば『ナンセンス物語』と『ナンセンセンス物語』
として分けた平面がある。それぞれに、意味が通用する秩序があって、それぞれの中
で起こり得る事は平面内でのそれぞれの物語という「項」同士が定める限界的状況
によって「雰囲気」として「ノリ」として、予めある程度漠然と決まっている。
即ち、ある作品を基準にした秩序があって、それに倣った作品がその秩序の中で
作品の意味を解釈するように同じ秩序の中の出来事として読ませる事によって、
作品の位置とか役割が定まる。


秩序の度合いというのか、秩序のレベルはあるだろう。『ナンセンス物語』の秩序は
比較的混沌としていて、「異様な事も起こり得る」という雰囲気がある。唐突な
展開、一見すると成り立たないような設定。しかしその「ノリ」と「雰囲気」を
感じたことがある場合、そこで起こっている事を認め、何がしかの出来事を経験
している。


『ナンセンセンス』という秩序の中では唐突なものは避けられていて、理不尽さは
普通に考えられる程度の理不尽さに収まっているか、状況に対するある程度の説明
を与えられるのでより秩序がある平面である。


この二つの平面は一応互いに交わってはいないが、似ている事も起きている。だが、
『ナンセンセンス』の中で『ナンセンス』が起れば、それをもう少し何とかしよう
とする雰囲気が出て、『ナンセンス物語的』な展開は不十分である。同様に、
『ナンセンセンス物語』は『ナンセンス物語』にとっては、危い。そういう「ノリ」
があったとしても、『ナンセンス』の雰囲気の中で破壊されてしまう可能性がある。




片方の平面で起こっている事を他の平面で起こっている事として翻訳し、実現して
見せる行為は、「交流」に当たる。



例えば、「中学生」が「高校生」の中で活動する場合に、「高校生」が「中学生」
の文法、レベル、秩序の度に合わせて、自己の考えを噛み砕いて伝えても十分に
伝わるとは限らないが、「中学生」が「高校生」に伝える場合には「高校生」が
己の「過去のノリ」を否定しなければ、同じ目線で会話を出来るかも知れない。が
その場合、「高校生」が「高校生として」その平面に属すものとして語ったので
はなく、「中学生もどき」として己を「中学生」の平面内で動かしてみた結果として
出てきた答えを語るのだろうか?



同じ平面に属している者として語る事は、別な平面を経験しているものでなければ
知ることのできない情報を使って、少し枠を拡張するように、その平面に新しい
何かを齎す事である。逆に、自らがまだ知っていない秩序の中に合わせるように
して手探りで平面を知ろうとしながら行動する場合、その「項」自体は平面を
離脱している。そして経験した後に元の平面に戻る場合に、平面内では処理できない
情報を持つ事になる。その情報を元の平面で「再現」しようとする場合には、
やはり枠は何らかのカタチで歪む。その無理のある「再現」が何かのはっきりとした
出来事に結実する時、平面は確かに拡張される。あるいは「項」が逸脱し始める。
他の平面にとっての「翻訳」が存在しないような項を創造する事によって、あるいは
創造的に再現する事によって、語を作ってしまう事。そしてその語が十分に意味
されるものとして加わる事。



言ってしまえば、「中学校」の中に「高校」を再現してしまう場合、それは異様
な出来事である。



漫画において、大人の考えを持った登場人物が大人のやり方で事象に対応する場合。
それは介入だろうか。それとも新しい秩序の創造だろうか。




平面は文化的な途絶、平面内でのみ通用する価値があって可能になる。中学では通用
するような展開の物語が、幼い判断が通用し良しとされる世界なら成り立つが、その
ままで他の平面に通用するわけではない。「中学生として」見られているから了解
される行為も上の年代になると了解不能である。逆に、既に成熟している中学生は
同じ平面に属する人にとっては了解不能である。




平面はある意味で縦に並べるべきだが、現実においては「並存」している。自分の
属する平面内での行為が、別の平面にとっては異様なものに映る場合がある。
並存している場合は、もはや別の秩序の異文化の国と表現してもよさそうである。



中学生的な視点で、そこで習った事を真とする秩序においては、現実の世界の構造
は醜く思える場合があるだろう。逆に、現実の方が真であり、理論はそれを解釈
する一つの方法でしかないとする立場にあっては、「理想化」されていると
判断される。現実の有様を肯定するところからは秩序の変革は不能かも知れない。
理想通りに機能しているところに向けて「馬鹿馬鹿しい」と思わずに行動を
起こしていった場合にこそ、現実は変わるかも知れない。が、ずっと中学で
習った事を忘れないまま抱えて、その理想を続けてゆくのはとても難しい。



それでも、夢の中で、私は中学生になって世界を見ている。異様でしかないもの
を中学生的に処理して、中学生の言葉でそれを表現しようとしている。理論を
受け入れた者にとって世界がどう見えるのか、そして上手く行かないのは何故なのか、
理論を拡張するように自然に現実で起きている事の方を説明できるようになる
場合、いつしか子供と大人の区別がなくなってゆく。





『ナンセンス物語』が肯定するような見方にとって、この世界は一体なんなのだろう。
『ナンセンス物語』と『ナンセンセンス物語』との差異は何なのだろう。



『ナンセンス』にしか思えない視点で世界を見ているところから、どのようにして
世界を意味づけられるような視点へと移り変われるだろう。二つの平面は交わる
のだろうか?

そらまちたび ④

[寺]


男性は「片山」さんと言った。雨が弱くなってきた頃を見計らって店を出て車に乗り、そのまま坂を下り始める。片山さんの言うには、


「ここら辺の名所というと大抵は寺だけど、お城のお殿様の墓がある寺は有名な方かな」


という事だったのでとりあえずそこに向かってもらう。神社仏閣などには疎い僕は、一応スマホで検索した情報を読んでみようと思って寺の名前を聞いたものを入力したがそれらしいものが見当たらないので不思議に思っていると、


「あ、漢字がちょっとややこしくて珍しい字が入っているんだよ」


「え?」


教えてもらった通り、入力すると確かにその寺を紹介するホームページも見つかった。読んでみるが細かい字で書いてあるし言葉遣いが難しくてなんだかよく分からない。細かいところの説明は片山さんに聞いて何とか概要は分かった。それによると結構歴史があるそうで、訪れる人もまあまあ居るようである。



少し陰気な感じが裏通りに出て、先ほど城で見掛けたような若い武士の大きな絵が掛けてある比較的大きな建物が目に留まる。「あれはなんですか?」と尋ねると、


「ああ、土産物屋さんと、食事処…かな」


「じゃあ、あとで寄ってもらって良いですか?」


「良いけど、期待し過ぎないようにね」



と意味深な事を言われる。結構見た目は派手だが車があまり停まっていないのが気になると言えば気になる。とりあえずその反対側にあった寺の階段の横で車を降りる。いかにも「寺」という雰囲気はある。幅が広い階段を登ってゆくと厳かな様子になっていって、林立している木で鬱蒼としていた。


「お寺とかは結構行くの?」


片山さんに訊かれたので「いえ、あんまり」と答えると、


「まあ若い人はあんまりね・・・」


とある程度予想されていたようである。


「片山さんも結構来るんですか?」


片山さんは「にやっ」と笑って、



「いや、滅多に来ない」


とはっきり言った。その表情にちょっと首を捻ってしまったが、そうしているうちに早くも頂上に到達していた。そこに広がっていた光景は、何というか「普通の」寺だった。どちらかというと、途上が雰囲気があるにしては「地味」とも言えて、ちょっとだけだが残念に思ってしまった。


「どうだい?」


「ええ。まあ「寺」ですね」


「でしょうね。でもどちらかというと、墓が大切だから」


「お殿様の墓ですよね、どこにあるんです?」


「あっち」といって指さしてくれた方向は、本堂の横に続いている道の向こうで、奥まった方に歩いてゆくと、意外と敷地が広いという事に気付いた。そこから再び階段を登り、もはや暗い林の中を歩いているような状態になったが、ちょっとするとかなり異様な物が目に飛び込んでくる。大きな墓石である。というか、墓石と言って良いのかよく分らないが、とにかく大きな石が沢山並んでいる。読み難いが何代目のお墓なのかも分るようになっていて、不思議だったのが古い順番で並んでいるのではなく、ほとんど無秩序に並んでいるという事だった。


「初代を正面に作って、あとはそこまで歴史が続くとは思ってなかったからとかいう話を聞いたことがあるけどね。何故か両隣が5代目と7代目の墓だね」



9代目の位置に至っては、その開けた場所ではなくて途中の道の脇に無理やり作ってあるような感じだった。


「不思議ですね…」



「私も不思議だよ」



そう言うと片山さんはおかしそうに笑った。分った事だが何というか片山さんはこの寺をそのまま評価しているというよりは、ちょっと変なところに目をつけて一人で面白がっているようだ。自分もここに住んでいたらその面白さが少しは分かるかも知れない。と、笑っていた片山さんだが急に真面目な顔になって、


「さて、今度は少年達の供養塔だよ」


「供養塔?」


「そう。さっき本堂の左の奥に目立たないけど例の少年たちを供養する塔があるんだ」



「ああ、なるほど」



階段を降りて、その場所に向かう。確かに10数名分の小さな石造りの塔があって、その前には花が添えられていた。


「私も全ての名は覚えていないけれど、みんな10代前半から後半の人だよ」


「本当に少年ですね」


その人達の事をそこまで知っていないけれど、そういう事実を知るとやはりその少年達が偲ばれる。手を合わせて目を閉じる。



「興味があったら、なにかで読んでみてほしい…としか言うことは出来ないかな。でも忘れられないようにすることは意味がある事だと思う」



僕にはただ話を聞いただけで分らない事かも知れないけど、色々な想いがありそうである。目を閉じながらそう思った時、何処からか「にゃ~」という鳴き声が聞こえた。猫の鳴き声だと思って目を開けたが距離的にそこらへんだと思ったところには何も居なかった。


「幻聴かな…猫の鳴き声がしたような…」


そう呟くと片山さんはちょっと気になったのか、


「ふむ…そうか」


と何やら一人考え始めたようである。取り敢えず戻る事にして、階段を降りていると来る時に目に留まったあの大きな建物の事を思い出した。


「あそこ入ってみます」


「…あぁ、そうだったね」


僕は片山さんの歯切れの悪い返事の理由をすぐに理解する事になる。その店と食堂が一緒になった建物はなんというか寺よりも薄暗く、売っている品物も特にそこの名産というものがない。


「商売っ気がないのかな…」


片山さんは苦笑いしている。

肩慣らしに捧げる不届きものの賛歌

嫋やかな猫のように、いや其れは女とも言えるのだろうか、とにかくそういうものが
自分に蠢いているのを感じる。聞こえるはずのない、、なにか其れ。大逆というわけ
でもない、かと言って全くのイノセンスでもない、そんな曖昧さの居心地の悪さも
それなりに無いと現実味がしないとわかるようになって、拘りも捨て何気なくやり
過ごしている。


勝手な事を言うよと思って、悉く無視をしていたのに、今となっては其れに惹かれて
いる。関係のない関係。関係のあるはずもない自分にとっては、居ないも同然だった
ように思える。過去は過去だ。引き返せる筈も、掻き回せる筈もなく、、、



「どうして、自分に素直になれないの?」



ただ、そう言われているように思えた。少しの狂騒があれば何事もなくすり抜けられる
、そう信じていた頃には、ただ頑なにあっただけ。



私は私。そんな単純な事すら迷うようになったと言って良いだろうか。変わらない瑞々しさ
は、現実だったのか、幻想(ゆめ)だったのか。今となっては、それも不確かになって
しまう。生々しい、この現実の、少しの居心地の悪さが確かに、「今」なのだろうと
確認しながら確信している。




少し彷徨った。気が付くと私はラジオから流れてくる音楽に聴き入っている。隣には
いつの間にか座っていた一人の女が同じようにぼんやり何処かを見て音楽に反応
している。此処はただの喫茶店。何の事はない、隣に居るのは連れ添って来た他者(ひと)
だ。



「この音楽良いわね。何だっけ?」


「何だろうね」


「音楽詳しいんじゃないっけ?」


「そこそこ」


その人はふっと溜息のような息を吐いて、


「そ。じゃあ仕方ないね」


と言う。『何が仕方ないのか』と訊きそうになったが辞めた。


「この後カラオケでも行こうかな」


独り言と云うには、あまりに上機嫌だった。


「何処に行く?」


「ここらへんにあったよね。二時間くらい」


「何歌うの?」


「この曲」


「そう」




喫茶店を出ると眩し過ぎる陽光が、顔に突き刺さった。私のものではない陽気さを装って
「あちぃ」と叫ぶ。「暑いね」と返してくれるだけマシだろうか。


「あ、そうだ。あの歌うたってよ」


そう来ると思っていた。


「歌えるかな」


「何で?いつも歌ってるじゃん」


「いつもと同じように、とはいかないかも」


「大丈夫、誰も聞いてないから」


「そう」


そんなもんだよなと思いそうになった時、


「私以外ね」


と彼女は言った。大人しそうでいて、と思いながら二人で街を歩いた。

他ならぬその事

「私」について語るのか、「私が生きている事」について語るのかそれは
微妙に異なっている。「こと」、と「もの」の違いについて述べられた書物
もあるが、「私が生きている事」というのは事実だし、生きているからこそ
こういう文章を書けるという意味で、自明なのだけれど、「私が生きている事」
はそんなに当たり前の事ではない。


「~という事」をどう評価するか。意味や価値などを一元的に定める事は出来ない
し、色々な人をその事実を知って何かを思ったり思わなかったりするが、
結局「私が生きている事」によって私自身としては、私がしようと思う事の
幾らかを実現する事が出来る。



「私」という主体を考えるのか考えないかはっきりさせないとしても「私が生きて
いる事」はどうあっても確かである。「私」は「私」の全てを捉えられるわけ
ではないので、「私」という語で十分なのかどうかは分からないが、それでも
そう表現するしかない「私が生きている事」自体は捉えているとも言える。



「私」は他者から捉えられるものではないが、「私が生きている事」は確認
出来る人にとっては確認できる。逆に「私」という主体が語っている事から
推論される「私」の様子は、読むこと、聞くことでしか推論されないという
のも確かである(脳科学的には脳波を測定すればある程度分るかも知れないが)。



私は「私が生きている事」を伝えようとしているのかも知れない。ある人が
「生きているという事」自体を伝えようと思う場合、どう伝えた方がより
「生き生きとしている」と感じられるだろう。あるいは「生きているという事」
を感じさせるだろう。



行動は雄弁に語る。私が動いて何かをしている様を見てもらえば「私が生きている事」
は自明である。だが、そうでは無いときですら生きているのは確かである。



「私が生きている事」、他者がその事実を知ることによって何を感じるのだろう?
それは私には分らない事でもある。

捧げられた変奏

どうってこともないように続いているけど、それなりに世の中では色々な事が起っているのを知っている。誰かが何かをやらかして話題になって、大々的に取り上げられてそんなにいい意味でもないのに時の人になって、数日もしないうちに語り尽くされ何でもない事になって、他の事が大事でどうでも良くなったころに、ちょっとした更新があって、でももうその頃には本当に意識の端っこでちょびっとだけ動いて、<まあそんなもんだよね>って言い合って終わりみたいな。


そういう話は私の人生にとって何の意味を持つのだろう。どう意味付ければいいのだろう。確かに一人で生きているわけではない世界で、でも私に加わった情報が一体私の人生をどう動かしたかなんて、もしそうじゃなかったらを確かめる事が出来ない私にとっては考える事すら出来ないわけで。ただ、私は起った事を認めて、自分でも話の種として、世間並みに知っているという事を証明するための手段として、その出来事を自分なりに消化している。


世間なんて、広いものではない。少なくとも私にとっては、活発に話がされているだろうなという事を確かめて、自分の考えがどこら辺に属しているかを少し気にしながら適当に広大な情報の海を漂っているその間ですら、自分が屈託なく喋れる僅かな時間を供にする友人との間に構築された関係以上に広がったという気がしない。


でも、いつもそういうわけでもない。



3月に起こった某タレントの文化論とも言えるのか、批判を伴う微妙な発言によって私の属しているような小さなコミュニティーに小さなひびが入った。サブカルに少し毛が生えたようなちょっとした文化的な活動でもしようというコミュニティーなのだが、某タレントの影響力はそこそこ大きく、もともとは創作活動をしている人達に向けられた発言だったが、コミュニティーの中にも個人的に創作を行っている人も何人かいて、私も含めて微妙にその発言を気にして自分達の行っている事の是非というか意味や価値を考え直さなければならないというような意見がある人から出てきたのである。



そもそもこのコミュニティーの繋がりは強固ではない。それぞれが続けたいと思えば続けて、気に入らなくなったら勝手に出て行って構わないように作ってある。その緩さが現代的というのか自分の趣味にあったからあまり群れない私もちょっとした気紛れも手伝って一員に加わっていた。その関係は直接的ではないし、リアルで会うという事も滅多にないから、関係と言えるほどの関係かは分からない。でも、それなりに互いが互いを意識して各々がやりたいことを続けたり、コミュニティーを立ち上げた人の提案で、共同で創作みたいなことをやっていたり、コミュニティーとしてちゃんと機能していた。



問題の発言は、「好き勝手に創作しているみたいだけど、身内だけで受けているって事もちゃんと弁えておいた方が良いよ」というもので、私のように大衆化など望めるわけもない文章を書いているような人間にとっては、自覚していたし正論に思えてしまった。タレントは文化人とも言えて、おそらくある程度の事をなした自分と他の一般の人の差が無いように同じ目線で指摘してくる人達に対してちょっと思うところがあったというのが本当だったのかも知れない。案の定というか、この発言は炎上気味で、


『別に自分達が面白いと思っているからいいじゃないか』

とか、

『あんたの「○○」がそんなに受けていると思えないけど』


とか、対抗する意見が押し寄せられ、中々対応に苦労していたようだが、そもそも既に地位を確立しているのもあって、諦めを含んだ擁護も目立った。創作が大衆のものになったともいえる現代からすると少し軽率にも見えなくはないのだが、評価されないとか評価が曖昧なところで趣味としてやっているような創作と、生業として続けるような創作を一緒くたには出来ないというのも大半の意見だろう。無論、別な意見もあるし、マイナーなものは評価されにくいし、今は評価されなくても将来的には、という可能性を蔑ろにしている時点でつっこみどころは多いように思える。



「と言っても、自分はこれで良いのかちょっと悩み始めたのが本音だよね」


「まあ、ちょっとは気になるかもね」



小さな世間である友人との直接的な対話で、その話を説明して自分の気持ちを伝える。友人はある意味で私の創作についても生暖かく見守ってくれるような感じで、良いものについては「良いね」と言ってくれるけれど、色々気遣ってか批評は避けている。コミュニティーの人が積極的に評価してくれるのとは違っているが、あくまで友人は私と会話しているのでこれはこれで正しいのである。等身大の、まさに何でもない私が普通に考えている事の方が大事だと、そう考えているようだった。



「どう思う?正しいといえば正しいけど、別にみんなが評価されたくて書いているわけじゃないと思うけど」


「俺は創作は実際よく分からないけど、最終的には自分の趣味に合うかだと思うけどね」



友人が変わっている事があるとすれば、友人は友人の考えを持っていて、そのタレントもタレントだからと言って特別視しない、そういう平等さがあった。考えてもみれば、作品なんて読んで何も思わない人もいるはずだし、分る人にしか分かるようになってなかったら、結局趣味じゃんと言えるところにあるものなのである。ただ、創作をしていて、それなりに時間を掛けて作ってみると、誰かの心を揺さぶるようになるのかも知れないから、価値がある場合は価値があると思って良いのではないだろうか。難しい。


「でもさ、それでコミュニティーの活動が委縮するようになるっていうのなら、まあなんというか…」



「なんというか?」


友人は少し言い辛そうにしている。ちょっと視線を逸らして目を擦りながら、



「そういうもんだったって事じゃね?」


「・・・そうだけど」


仕方ないという意味である。仕方ないといえば仕方がない、盛り上がりそうになっていた企画もおそらくその発言の後に停滞気味になっている。文章でやり取りしているから感情の方はあまりはっきりとは分からないが、どこか自信なさ気というか、迷いがある。多分、それまで無批判にやれていたのが良かったのだが、一括りとは言え、まとめて否定されたような気持になって、これで良いのか考え直している人もいるのだろう。



「でも、大切なことはさ、」


友人は躊躇いがちに、それこそ自信なさ気に言う。


「良いものを創りたいって思う事が出来るかどうかだと思う。それを聞いて見返してやろうと思った人もいるだろうし、本気でプロを目指し始めた人もいるかも知れない。だから、君がやりたいと思うなら続ければいいんだよ」


それは続けろという意味ではないし、ましてや辞めろと言っているのでもない。創作を通して評価しているのではなく、友人は私を見ている。いつも大切なのは私が続けるかどうかなのだ。


「応援してくれるかい?」


「やれ、その方が君らしいから」


友人は笑ながら言った。案外、広くも何ともない世間で、本当に友人との関係で半ば冗談後押ししてくれるというのは心強くもあった。そう、私は続ける事なら出来るのである。何はなくても続けているそれを、ただ続けるのに理由なんて要らない。ぐだぐだになりながらも、不恰好で歪であっても、それを続けている私の方が私らしいのは決まりきっている事なのだ。




一か月後、タレントの発言が殆どの人に忘れ去られた中で、私は少しづつ動きを取り戻しているコミュニティー向けに私史上もっとも情けなくて、どこが面白いのか自分でも全く分からないような、へんてこりんな作品を公開した。



『肩慣らしに捧げる不届きものの賛歌』



そんなよく分からないタイトルの不条理ものは良くも悪くも、変な作品だと内輪の評価が定まって、これなら『評価しようがないから』あり得ない事だがもしそのタレントが読んでも何も言えないだろうという事だけは言えそうで、何にも言えないだけに何にも反応がないのが寂しいが、それはそれで人生のアイロニーになっているようでどことなく奥深く、友人に見せたところ、



「わけわかんね」


と笑ながら言われたので、総合的に良しとしようと思った。

意味のない事

「全ての事に意味がある」という事は言えないと思います。自然法則に従って起きる事
や偶然的に起こる事は、自分の人生において物語的にどうあるかという意味付けが出来る
ものではなく、むしろ自然法則が確固としてある現実の中で、時に予想も予期もしえない
かたちで人生に対して何らかの出来事を残してゆきます。


自然法則の全てが分っているわけでもないし、完全に計算できるわけでもありません。
理論があって、大体どういう条件でどういう事が起るかを予め考えて構えておくことが
出来ますが、それがいつ起こるかについては天体レベルの事ならともかく、日常的に
起こる事についてはほとんど何も言えていないに等しいと思われます。


自然現象も含めた起こる事すべてが自分の人生において何らかの『貢献』をしている
と解釈しているのは違っています。自分が精神的に成長をして乗り越えるための試練
と解釈するのは勝手ですが、常に乗り越えられるものでもありません。むしろ、必死に
生きて、乗り越えられる手段、方法を見つけたときに回顧して、それは自分にとって
、人生において「自分をそうする為に必要だった事」だと意味づけているに過ぎない
と思います。


要するに、どんなことが起こってもそこから立ち直る手段と方法があれば、起った
事に対して肯定的に捉えられるようになるという事だけなのです。そしてその手段
と方法については創造的に、まぐれも偶然も手伝って「見つかる事がある」という
だけの事ですが、どう考えても無理な事は「見つからない」し、「見つからないまま」
なのです。



予め「どうにかなる」と信じる立場では、条件が悪くてもとにかく有効に生かせるもの
を探して「諦めない」という事から、実際に条件が揃ってきた時に上手くゆくように
なるという意味で、「どうにかなる」と信じるのも必要かも知れませんが、逆に
どうにもならない事に対して「どうにかなる」と信じるのはおかしいと言えます。



「どうにかなる」というのはある程度見通しが立っている状態の事について、特に
何かの条件さえそろえば良いだけという事について、自分の中で思考の繋がり、
シミュレーションが出来ている事と言えるのかも知れません。根拠のない自信と
違うのは感覚的な確かさがあるかないかの違いかも知れませんが、その差こそ重要
だったりもします。




自然現象のある事に対して、それが「どういうものであるか」について述べている
言葉はありますし、それは人間がそう意味付けたものとも言えます。実際にはもっと
複雑な様子かも知れませんが、その現象をその現象とカテゴライズして、それが
何であるか説明する言葉があります。ですが、それより他の意味はないといえます。
人間社会は基本的に何かを意図して作られているわけですから、人生において意味
がある事も多いですが、全てがすぐに意図が分るように出来ているものだけではない
ですし、意図せざる結果もあります。一部分の、上手く出来ている様子だけを見て
世界の全てがそのようになっていると類推する事は違っています。



思考はそれでも、「~というもの」という概念を創り出し、それを現実に適用し
整理し他の概念との関係によって何かを意味させるものとして見る事を可能に
します。「戦うもの」と「逃げるもの」というような適当な概念ですら、その
二つが共存している平面を想像すると、実際に起きている事以上に語れるものに
なります。実際に起こっている現象を見えない関係によって合理的に意味付ける
事に寄与する可能性もあります。ですが、見ている「それ」は本当に「~という
もの」なのでしょうか。そこには常に慎重でなければなりません。現実の対象は
そう簡単に汲み尽くせるものではありません。常に「○○」として見られている
のです。そう呼ぶ時点で、意味付けられているといえばそうです。



でも、実際のところは固有名詞以上の役割を出ないとも言えます。私に与えられた
名前が私の性質を意味しているというより、仮に私が習慣的に「~のような人」と
いうものの代名詞になった場合に、私の名前はその固有性を社会的に獲得した
だけであって、実際の私は名前がそれを比喩的に意味する前の、ただの名前だった
事もあります。前期、中期、後期、と呼ばれるような時間的変化もあるでしょう。
どちらにせよ、私の考えも変わり得るという事です。



「全ての事に意味がある」とは言えないので、当然ナンセンスな事もありますが、
それが何かの役に立った事後的に、「△△に役に立つもの」として名指されるように
なるかも知れません。でもそれはそう知ったからこそ名指されるようになっただけで
、役に立たないうちは意味を与える何ものでもありません。使用法を考えるという
事に発展的な「意味」がありそうに思えます。
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Author:なんとかさん
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