FC2ブログ

夕陽の答え

日も暮れたし帰ろうかと思った。もともと暇潰しで出歩いていたようなものだし、特に後ろ髪引かれるような事もなく繁華街を立ち去り、気付いた時にはいつも利用する駅に到着していた。


今日は一日何事もなく、良い天気だった。だけど残った印象はそれしかないといえばそうだ。今日だって世界の何処かでは当たり前のように何事かが起こり、取り沙汰され、何がしかの印象を人々に与え、そしてその代わりに別の何かの印象が薄れてゆくような事が繰り返されている。決して忘れるつもりはないのに、意識していられる事はどうしても今目の前で起っている事になってしまって。


昔テレビで見ていたあの人がどうなったかなんてことを、本当に頭の片隅で意識している事がある。あの人も、この人も、どの人も、それぞれの人生があって、その意識の中ではずっと人生が続いているけれど、彼等の一瞬、一部を垣間見たに過ぎない視聴者は、その人がその後にどうしたかを知るべくもなく、それぞれが思うように続きを与えているのだろう。


今日も家に帰ったら、さほど意識しなくなった高画質のテレビの映像に出てきた誰かの事が関心事になってしまうのだろう。そこまで関心があるというわけではないけれど、全くの無関心でもないというのでもないレベルで。


それなりに視聴を続ければ疲れてくるし眠くなる。そして眠っている間に良い夢を見ても目覚めればいつもと同じ…ではないけれど昨日に続いている殆ど同じ構造の世界が待っている。昨日と似て非なる今日。だけど、その近似具合は昨日も今日も同じ一日として認識させてしまうほどに似通っている。



大きな変化を経験した事はある。個人のレベルで、日本のレベルで、世界のレベルで。



あまりに大き過ぎる変化はそれ以前とそれ以後を意識の上で隔ててしまって、もはや取り戻せないのではないかと思われるようにも感じさせるけど、確かに変化を経験してもやっぱりやる事は変わらないのだなと実感させるような事も多い。何かが壊れて、初めてそれを望んでいた事が分るような。



とはいえ、昨日も今日も同じような人生は望んではいない。というより、人は日々成長…そして退化するものだから昨日と同じことをしていていいわけはないのだが、そういう話ではなく、この時間の使い方を知らないでいるが故にただほっつき歩くような事を明日もしようとは思わないのだ。



今日だって十分学んだのだ。


『何も目的もなく歩いても、暇は解消されない』


と。その教訓が新鮮なうちはきっと今日とは別の事をしようと思うだろう。だが時には何も目的がなくても、その無為を楽しみたい気分の時がある。『暇』というのも厄介な状態だ。




この頃沈みゆく夕陽の向こうのどんなに遠くを見てもその先が知れていると感じてしまう。それはそれでこの街に、それこそ夕陽の赤に染まるように染まり切ったという事で良いのかも知れない。前からずっと抱いていた「未知の世界」への憧れは、精々気晴らしの為の「未知の世界」でしかなくなったように感じる。この世界をよく知るために「未知の世界」を求めるような、そんな感じ。



一発大逆転がありえそうな未知の世界へ誘われるより、この世界でしぶとくボチボチやって行った方が気が休まって好きな事を考えられていいような気がする。とは言ったものの、この世界について知らない事は沢山あるわけで、この世界において自分とは違うあり方をしている誰かがいるという事を知れたら、それだけで世界は広がったように感じるのも確かだ。





そこでテレビの話である。どうせ家に帰ったところでネットかテレビくらいしかないのだ。どちらにしても何か面白い事をやっている人を見てまた頑張ろうと思うような展開なのだが、「未知の世界」のようなワクワク感も少しは無いではない。入れ替わりの激しい芸能界とやらでいつの間にか知らない人が出てきて、気付いた時には共通認識になっている。純粋にその人のする事に興味があるのか、それともその人を知ることによって自分を再発見する事が出来るのかは分からないけれど、何にせよ刺激的な世界はそこにあるようにも見えなくない。



が、しかしこの時代のこの世界で、本当にこんな事をしていていいのかと疑問に思う事がある。自分が何が出来るかというとそれほど大したことではないし、それこそ自分の代わりは幾らでもいるのだろうけれど、要するに自分を声高に主張した事がないような気がするのだ。自分で勝手に納得している事は多いけれど、じゃあ実際に確かめたことがあるのだろうか、という事が甚だ疑問なのである。




言ってしまえば自分がそう思う事がよく分からなくなっているのだ。同調して、そうだと思う事は多い。代弁者が代弁してくれる。でも、自分はもう少し何かを言えるのではないか、そんな気がしてしまう。



まあ、そんな事言ったって、何を言ったらいいのか分からないのだけれど。




纏まりもなくただそうだと思う事を整理している間に、自分でもよく分からなくなってきて電車の窓から外を見遣る。結局多くの事はこの景色を見ているとどうでも良くなると言えばそうだ。



『暇』だったと思っていた事も。



いつも見慣れている光景。でも夕暮れの一瞬しか見れないこの光景を見るために外出したと言ったって別に構わないような気がしている。きっとそんな自分のあり方が…そんなあり方をしている自分を肯定してよいのか迷うから悩んで、そしていつも確かめて納得するのかも知れない。



あの夕陽が多分『答え』だ。
スポンサーサイト

なつか、なつかし

梅雨は明けないようですが気温は既に夏らしくなっています。体温の上昇、身体の
到る所に見受けられる日焼け。こんな時には扇風機かエアコンかで悩むところですが、
日当たりの関係で部屋は涼しいので今のところ扇風機が活躍しています。


外を歩いていると馬鹿馬鹿しいほどの汗を掻きます。小学生と思われる男の子が
自転車で横を通り過ぎて行く際に「こんにちは」と挨拶してくれたので、こちらも
「こんにちは」と返しましたが、坂を下っていてスピードが出ていたので届いた
かどうか分りませんが、<ああ、夏休みだな>と思いました。


年齢を重ねたという事もありますが、流石に毎日の事で特別視出来る事は少なくなって
きて、どちらかというと中長期的な変化を感じ取るようになっていますが、『夏』
のように四季は変化を感じるのには丁度良い長さの月日だと思います。そしてその
「同じ」と考えて把握している「間」の様子を大まかに語ろうかなと思うと、
流石に「今年の夏は」と締めくくるにはまだ早くて、代わりに今年の「梅雨」は
どうだったかと振り返ると、雨はそんなには降ってませんでしたね。



中長期的に物事を見続けてないと言えない事を知ってゆくというのは「年の功」とも
関係していそうですが、その中長期の間にも今日すれ違った男の子はこの短い夏の
間に、そしてその間にしか出来ない沢山の経験をしてゆくんだな、と思うと…



なんだか少しくらい今年の夏にしか出来ない事をしてみたいなとか思ったり思わなかったり。

我々が住んでいる世界に、住んでいる、我々とは呼びたくない我々

パンプキンハウスに招待された。内装は暗めの照明によって何処かしら不気味なのに、ベージュのコンクリート壁の到る所に貼ってある珍妙な文字列のオンパレードは緊張感を欠き脱力させるように作用する為か、全体としてよく分からない印象を与えている。所々煤けている壁と境界を曖昧にしている同系色の紙に太字で書かれた、

『朝寝坊 二十日大根 うまいぼう』

という五七五を何と評したものか。その直ぐ隣にある、

『闇鍋の 煮えたぎる湯に サロンパス』

は情景を想像するだけで吐き気を催しそうなのだが、今宵招待してくれた家主は、何を思っているのかご機嫌な様子で戸惑う私を見つめている。その視線に耐え切れなくなって、


「ご主人…つかぬ事をお伺いしますが、これは川柳ですか?」


と訊いたところ意外な答えが返ってくる。


「いえいえ、良く間違われる方がいらっしゃいますが、これはれっきとした俳句ですよ」


しばし無言の間。


「お言葉ですが、季語はどれですか?」


「闇鍋ですね。闇鍋といえば夏でしょう。暑苦しい四畳半の部屋に集いし歴戦の勇者が鍋を囲んで汗を垂れ流している情景が目に浮かぶような句ですね」


どういう状況なんだと思ったが口にはしないでおいた。冬の事だとばかり思っていたので微妙に違っているが、なんにせよ『闇鍋』は季語ではないし、どちらかというと正式な日本語であるかどうかも怪しい。


「お訊ねしますが、この…句を読んだ方はどんな人ですか」


質問が良かったのか家主は満足そうな顔をして即座に答えた。


「それがですね、目もくらむばかりの美女なのです。私も色々な女性を見てきましたが、あんなに眩しい方は始めてでした」


「へぇ…」


「あ、そうだった!!」


何かを思いだしたかのようにご主人。


「どうしたのです?」


「ちょうどその方が今夜来る予定になっているのです。その方が詠んだこの句が前回の俳句大会で準優勝だったのでこうして飾ってあるのですが、女性の方から「それを見に来たい」との事で」


「はぁ。そうなのですか」


今夜パンプキンハウスに招かれた理由は、この家で夜な夜な行われているという俳句大会の取材だったのだが私はそれほど乗り気ではない。だが我が弱小出版社が生き残るために、『記事に出来そうなネタは入念に取材しておけ』との通達があって、気乗りはしないが仕方なく噂で聞いたパンプキンハウスという名の館に取材を申し込んだのである。


結果的に訳のわからない異界に迷いこんでしまった感じになっているが、世の中には奇妙な風習も沢山あるだろうからそこは目を瞑る事にして、今は主人の言ったその美女に話を聞いてみようかなと思い始めた。その時、先ほど私も鳴らした家のベルが大音量で響き渡ったあと、「ごめんください」というやや甲高い女性の声が聞こえた。


「あ、丁度いらしたところですね。はいはい、ただいま参ります」


家主は早足で玄関に向かったようである。一人になった部屋で先ほどから我慢していた欠伸を存分に行って不足している酸素を脳に取り込む。時刻は夜の10時。常識的な感覚からすると俳句をやるような時間ではないが、取材によっていつもこのくらいの時間に集まるという事らしい。『入念な取材を』と言われている影響もあって、大会前にあらかじめ話を聞いておいて、後日大会に直接立ち会うという流れになっている。



「こんばんは」


先ほどの少し甲高い声の主が現れた。私はここで油断していたという事を正直に申し上げなければならない。主人が『眩いばかり』のと言った美女は、確かに美女だったのだが、『眩いばかりの』が美しさをたたえる比喩ではなくて別な事実を指しているとは予想外だった。


「うわ!!!眩しい!!!」


美女は身体中に電飾を巻いていた。従って彼女の身体は眩いばかりに発光し、目が眩んでしまう。何故こんなことをしているのか分からないけれど、美女はごく普通に話しかけてくる。


「本日は取材との事で、私も一参加者として取材に協力いたしますわ」


丁寧ですごく真面目そうなのに、赤青黄色がビカビカでしかも部屋が薄暗いせいもあってそこだけ異様に明るく、私は困惑してしまう。ただ、記者魂なのかこんな状況でもインタビューを始めてしまう。



「あ、あの、その電飾は何なんですか?」


「え?これですか?俳句のインスピレーションになるかと思って」


部屋が薄暗いからとかそういう理由ではなくて?という質問が浮かんだが、どちらにしても不合理だったので別の質問を考える。


「それで俳句が浮かぶようになるんですか?」


「はい。皆さんに好評ですよ」


これを肯定するとは一体どういう集団なんだ、と思ったがあんまりにも自信満々にいうものだからこちらの感覚が麻痺してきて、「もしかして有効なのかも知れない」と思い直してしまう。


「あの前回準優勝したとか」


「ええ。5回目にしてようやく準優勝の栄誉を賜る事ができました」


女性は一緒に来ていた家主の方に身体を向けて深く一礼すると、家主は


「私は最初から彼女の才能を買っていましたよ。皆さん、「もう優勝は目の前ですね」と仰っていますよ」


「いえいえ、そんな私などまだまだです」


私は今までの情報を整理して、あの『闇鍋サロンパス』の句はこの女性が詠んだものだと理解し、若干戸惑いそしてかなり納得した。


<こんな奇人だったらあんな句も普通に詠みそうだな>



私は一応形式的に訊いてみる。


「あの、もしよろしければ今から一句作ってみてくれませんか?」


女性は私の無茶ぶりに動揺するようなそぶりをしたが、何か用意はしてきたらしく、


「分りました」


と落ち着き払って言うと、ものの数分で一句を作り上げた…







その日から数日たって、トイレの中でその句を反芻している。



『かばちたれ てめーが言ったら おしめえよ』



色んな意味で次回の大会が気になるが、取材に行きたくはないと思う。そして、私はそれを俳句とは認めない。






ごった煮

猫生活

そのキジトラの猫は間合いを確かめるように部屋を横切る。そして視界に少しばかり
同じ時間をこの家で過ごしてきた同類を一瞥する。その『少々』というのも多少躊躇
われる豊満な体つきをしたブロンドのような明るい長毛の猫は年長者の視線を受け、
何か思うところあるのか、キジトラの移動を見守る。


キジトラが少し立ち止まる。目の前にいるのはこの家にやってきてもうすぐ一年になる
はずの黒に灰色や茶色が混ざった長毛の雌猫である。この家の主として生きて10年近く
になるキジトラは、この新入りに対してもう一匹に過去そうしてきたように、「自分を
敬え」というような気持ちを表すかのような威嚇めいた「シャー」を行う。蛇のような
その時の顔つきを見るたびに、「猫は歯が鋭い」という当たり前の事実を再確認させら
れる。この歯が家の人間たちの手や腕に食い込むときに、それは甘噛みなのか、それとも
本気で齧っているのか分からなくなるような猫がこのキジトラである。



キジトラは唯一の雌猫に対しても容赦がない。一瞬の猶予のあと、本気と遊びの間くらい
の勢いで雌猫を追いまわし始める。キジトラにとってはそれは当然のことで、雌猫
にとってみれば災厄でしかない。追いまわされ、全力疾走の必死の回避のかいあって、
無事安全地帯に逃げ込んだ雌猫は「なにすんのよ!!」と言わんばかりの呻り声を
あげて、それ以上の接近を許さない。その一部始終を追いかけて見ていた長毛の雄猫
は、「大丈夫だな」と胸をなでおろしたような様子でその二匹の様子を見つめる。


それはまるでこう思っているようだ。


「やれやれ。僕が行かないと心配だな」


そんな力関係は食事の時には激変する。雌猫とキジトラは一緒になって人間に餌を要求
し、もう一匹はその二匹に任せているかのようなのである。必死の訴えのお陰か、
いつもより少しばかり早い時間に餌にありつくことのできた二匹の様子を窺って
「そろそろ自分も食べに行こう」とマイペースでやってきた彼は、あまりがつがつ
しているようには見えないが人間が知らないうちに沢山食べているようである。


そして猫達は眠る。例外なくどの猫も、ねむっている時には安らかである。この安らか
な顔を見て、


「ああ…また朝3時に起こされるのか…」


と複雑な気持ちになる人間がいる。

把握している「自分」

ツイッターのつぶやきから。少しだけ、「自分」について。


感情とかの心の問題。自分が客観的にどういう存在なのかはともかくとして、自意識が、心が自分と思っているものは、全体からみると一部でしかないのかも。心の働きで私が「自分」と思うものは、よく分からない脳の働きとか身体の動きとかの主なもので、本当に動いているものとは違っていると思う。

私が把握できる自分はそこまでだし、主に感覚的で感情的で、ある程度以上になるともう自分でもわからない(意識が把握できない)が、それでも客観的に確かめられる自分の働きが私を生じさせているのは疑い得ない。逆に私であろうと思っていても、把握し切れていない自分に変調があれば、私の働きも鈍る。


私が「自分」と思っているものが実際の自分を動かそうと思ってどこまで動かせるのか?


でもこれは心という主観的なものである。

この

文章を書いていながら、文章の限界に位置するように感じることがある。

「文章(思考)によって何かをなしたい」

と思ったとしても、明らかに目的とする事に対して「実際に何かをする
必要がある」場面であるなら、文章を書くよりも実際にその何かをした
方が良い。実際に何かをした方が良い場合にわざわざ文章によって伝える
という方法に限定をする必要はない。


「無」ではない何かとして書いてみる事もあるけれど、それはそういう事
しかない条件でなら選べるが、実際に何かを出来るとなるともっと合理的
な選択をする。



これはほぼこの問題と同じだ。


「将来の事を考える場面もあるけれど、今実際に『動いて』何かが実現するところに
加わりたい」



常々こういう事を思っていた。


「もし読むという行為だけで、満足に至れるならそれはどういうものだろう」


実際のところ現実に起きている事に対して無関心でなければ、常に不足している事を
何とかしなければならないし、満たされることは無い。殊、食糧の問題などは不足
しないように常に何かする必要がある。エネルギーについてもそうだ。


何かを理解させ、相対的に満たされるという意味で読む行為は必要だし、必須である
場合もある。けれど、読むという事『だけ』で完成させようと思ってもそれは不可能だ。
当たり前と言えば当たり前なのだが、自分が書くという行為を行う場合に書くことが
そもそも『無理』な状況にあるとしたら、書くという行為に色々なものを背負わせ過
ぎているという事なのだろう。


思考は明確になる。明確になる以前にしかし直観的に「こういうものだ」というのは
把握している。全ての人にそれを伝えられなくても、伝えなくても良いものも恐らく
ある。ゆえに明確にする必要もない事もある。例えば、自分が感覚的に行っている
その感覚の『差異』など、他者が観測できるわけでもないだろうし、感じる事も出来ない
のだから、それを説明する必要はないのだ。だが、感覚に『差異』があるのは確か
だろうし、差異があると認識しているから区別できるし、それぞれの感覚に対して
適当な反応が出来るのだろう。





現に、今感じている「書くという行為でこれ以上何かが出来るとは思えない」というような
感覚があるから『限界』だと判断しているのだが、それが本当に『限界』である事を
説明するには一応書いてみるしかない。だがどう考えても、今言った事が念頭にあるから
その上で何か書こうと思った場合に「何も出てこない」のは仕方がないはずである(感覚は
正しい)。明らかに「読むだけ」で解決するような問題ばかりではない。むしろそういうもの
は滅多に無いかもしれない。



何にしても、書くという事の限界を感じる。



というか、それこそ同じ目的の中で書くことについては一つの終了を迎えたのかも
知れない。それに気づいて、多分最後なのだろう。

すたいる

それほど書くネタはありませんが、雰囲気というか伝えたいことはないわけでは
ありません。むしろ普通に生活している事の中でしか伝えられないような、ある
いはツイッターのように継続しているようなものでしか伝えられないような、
『アクチュアリティー』というのか実際に動いているような感じを伝えたくて
とにかく書いている、そんな感じです。


そもそも『動作』とか『所作』というのは結構単発的で、それが何かに繋がったり
何かの為になったりする場合だけではなく、本当に「ただそうした」という、エピ
ソード的な記憶ものこらず、日記などに記録した事実として残っているような
場合があります。後からその過去にした「何か」が、別の何かをするのに、何かを
考えるのに役に立つような経験になる場合がありますが、その『動作』を取った
時にはそれが役に立つなど予期していないのが一般的です。


要するに『最初の一歩』は、計画がはっきりしていたとしてもそれほどすぐに意味
づけられるものではないのです。しかしながら、実感としては「ああ、今まさに
新しい事の方向に踏み出している」というような感覚がありますから、『アクチュアリ
ティー』としては、その方向に動いているのか、それとも動いていないのか、単発
的なものとしてではなく、続いているものとして見ればもしかすると区別できるのかも
知れません。


新しい音楽、小説、創作物に触れる。違う事を勉強してみる。それまでとは違うものを
創ってみる。


こう、日常でやることが普通にしていても結構ある世の中になるとそれまで全然やって
みたこともないものを始めるのは中々しんどいだろうし、最初は慣れない事も多いので
続ける事が大変ですが、少しづつ理解してゆく、掴んでゆくと勝手が分ってやり易く
なってゆくし、いつの間にか新しいレパートリーになっている可能性があります。



結局のところ、『自分から』踏み出してみる時期だとは思うのです。誰が言うから
でもなく、自分がそうしたいからそうするというその気持ちの方に行けば。そして
実際その先にあるものを『探す』というよりは、自分が「先」だと思ったものを
「先」だとして、意味付けて行って、自分なりに解釈してゆく事もしてみるという
事です。多分、そこで出来上がってゆくものがスタイルなのでしょう。

猫話10

猫を飼っていても猫について不思議だと思う事は多い。家の3匹も三者三様それぞれ違った
行動パターンがあるが、猫らしいと思える事もあればたまに「この子だけだろう」と思われる
ような珍しい行動をとることもあって、さっきもキュウリの漬け物を作っていたら、『花』が
キッチンに乗っかって包丁を使っている手の辺りを行き来して作業しにくかったが、基本的に
そういう危ないところに近寄ってくるのは『花』だが、『マロン』は身体が重いからなのか
邪魔をしたことは殆ど無い。『ハッピー』については蛇口から出る水を直接飲もうとして
上がってきてはしばらく無言で「水を出して」と訴えてくる。過去に何度か自分で蛇口から
水を出した事もあるが、やり方が完全には理解できていないのか、いつの頃からか人に
出させるようにちょこんと座って待っているような事が多くなっている。


猫が新しい事を覚えて習慣にするという事はよくあるけれど、人間ほど習慣化しないというか、
一旦身についても徐々に変質してゆくようである。特にご飯の時間は中々安定しない。人間
の方は同じ時間に与えるようにしているのに、猫の体内時計なのかきっかり同じ時間にはならず
一、二時間はずれていったりして最近では朝がきつい。というのも、朝の3時頃から『マロン』
と『花』が枕元でご飯を要求し始めるからである。以前はうるさくとも6時くらいまでは
与えないようにしていたが、『花』の人の髪を噛み切る癖が甚だしくなってきて、耐え切れなく
なってしまったので、眠い目を擦りつつ4時に起きてご飯をあげて二度寝する感じになっている。
ここで面白いのは、『マロン』がジャンプしてドアを開ける能力を持っているので、自分の部屋の
ドアが閉まっていても『マロン』が開け、それに便乗する形で『花』も侵入してくる事である。
さすがに二匹となると目が覚めてしまう。



『花』については、インプラントの避妊手術が簡単に済んだら前の様子が変わって本当に元気で、
何というか静かになった一方で、落ち着いて色々な事に興味を持つようになって、はっきりと
主張をするようになったので、時々うるさい。




どの猫も夏の前後に産まれている筈だから夏の方が元気になるようだが、去年の『マロン』は大変
だった。水を飲まなくなって脱水になりかけたり、ちょっとした結石が出来ていたようなので
病院につれていって薬を飲ませ注射を打ってもらったりした。今年はそうならないように願って
いるが、他の二匹は特に問題はなさそうである。体調管理の問題だと、『ハッピー』は自分で
体調管理をしているような感じで、ご飯も食べ過ぎず、適度に運動もするし、いつもスリムだが、
『マロン』はだんだんメタボになりつつある。というかもともと大きくなる種類だからか、6キロ
くらいになってしまったが、他の猫よりも食べているという感じはしない。『花』も食欲が増進
しているようで、身体が小さく3キロくらいしかないけれど、なにかとご飯を要求する。今後が
少し心配だが、『花』についてはその分運動量もすごいので、当面は大丈夫そう。



猫達は3匹でお互いにちょうどいい関係を築けているようである。まあ時々『ハッピー』に追いかけ
られる『花』を『マロン』が心配して追いかけていたりすることもあるけれど。

数学でなければ

現実的に道具を製作するには物理や数学の知識が必要になるだろう。物理的に
数式を使って表現できるある具体的な状態、値に調節しなければ上手く成り立
たない設計において精密さが要求される道具が現実において何かを行うのに使用
されている。何かを精密に『上手く』行う事によってのみ、操作が可能な事が
ある。その場合は数値が少しでもズレてしまう事が決定的な差異となって現れる。


「それが起った」、「それが起らなかった」。この二つの事象の大きな差異が
そもそも数値としては僅かでしかない事があるのも現代である。それは数学という
言語を用いなければ表現できないだろう。「僅かに」、「少し」、「微妙に」
などという言葉を用いても上手く捉えている事にならない。現実で使用されて
いるものの多くは既に数学を用いている。人間的な営みで実際に起った事は
言葉で表現できる事もあるが、数値の違いで表現される度の強さ弱さで、感覚
としては違う感覚を引き起こす。

どうかわからないが

何かの為に何かをする、あるいはする事を考えるとしても、実際に行動を起こした
結果としてその何かが実現するかどうかは分からない。物理、自然現象の動かしがたさ
をどうこうできるものではないし、人間関係の網の中で何かの決定権を持っている
人に働きかけが出来ない人はどんなに頑張ったとしても、事態を自分が思うようには
動かせない。


投げ込まれ、確かに続いている条件の中で出来る事が、とてもではないが関心のある
事と関係があるようには見えない場合、関心のある事の進行とは全く無関係にしか
思えない場合、普通に考えれば「動かそう」と思う事自体が間違いである。「動かし
たい」と思う事は普通だろう。だがそこから行動に移そうとしても現実的ではない。



ただ、「動かしたい」とか、「こういう事を希望する」とネットのような情報が不特定
多数に見られる可能性がある場所で述べる事が完全に事態の進行に関して「無」かどうか
は分らない。確実性から言えば、殆ど期待できない、低い確率の事態だがそれでも何かを
言ってみるのは何もしない事よりかは何かになっているだろう。


一方で人と人との繋がりや、自分には分らない他者の考えの部分でどういう関係で何かが
起っているか不明瞭な領域がある。自分がこの文章を書くことによって、自分の動かしたい
と思っている事に対して直接的には何にもならないとしても、間接的に全く予期しないカタチ
で何かとして読まれ、他者に何かの影響を与えるまではいかなくても、僅かな判断の揺らぎ
となるとしたら…


だが、仮にそういう事があったとしても、自分が望む方向に何かの影響を与えられるという
訳ではない。とはいえ、公共の利益に鑑みると、誰もが確実に分っている事を整理する
助けになるものがあれば、例えばウィキペディアのようなものがもたらしているメリット
はデメリットに比べれば、かなり一般的にだが役に立つようにも思える。



事態をどうにか出来るわけではないかも知れない。だが、基本的な事を受け入れ、そこから
思考してゆく事によって自分の中で何か整理が出来て、何か次に生かせる事も見つかる
かも知れない。一つのきっかけであるのは確かだろう。
プロフィール

なんとかさん

Author:なんとかさん
ナンセンスな物語を書くつもりです。リンクフリーです。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
普通のカウンター
投票
無料アクセス解析
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR