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いくつかの私

様々な自分がある。続いている。

私が認めている事として、例えば「死」を意識していてそれと向き合っている私と、誰か他の人を意識している時では明らかに違う。差異がきちんと把握されている。

それぞれの意識が認めている仮定が違うとも言える。他者を認め他者の意見を受け入れた私はだがもっとも確実と思える事に集中している時と受け入れやすさの度合いを変えて話している。気を許せば認めるという事である。


どれが本気なのかを考える場合に、「死」に対して向き合う私とほぼ同じくらいに大切な人に向かい合う為の私があり、どちらも両立している。
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きれはし

いつのまにか思考が始まっていることがある。連続的な意識の中では何を最初の仮定に
置いたのか、何を自然に認めて行ったのかを全て把握している事が困難である場合が
多い。何も考えていない状態を基本にすると言っても、常に何かしらは考えているのが
人というものだ。


ただ努力次第ではそれを後から明晰にする事ができる。事実と仮定をわけて、自覚的に
「自分はこの仮定を受け入れていたのだ」と了解する事もできる。



これは思考というわけではないが、何となく思考になり始めそうなものを書くつもりだ。
それは漠然とした雰囲気、ある方法による世界の把握によって見えてくるものから始まる。



☆☆☆☆




少し過去を振り返ろう。思考を明確化し、思考の始まる「仮定」を立て始めるというところ
までを言語で言い表す事ができた。そして、「ゆるやかな気持ちで」というカテゴリーを
作った目的を実現する為に、その雰囲気をなんとなく言葉にしてみたいのである。そもそも
その「ゆるやかな気持ち」の意識とは何なのだろう。意識などという言葉を使うとそれは
見えないから、ことばで解るように、いままでの議論を使って、どのような「仮定」の集
まりなのだろう。世界観という事についても語った事があるが、「仮定」の集合を一つずつ
ではなく一挙に真とみなすような方法で世界を見ている。それを言い表すための言葉が
「ゆるやかな気持ちで」なのである。その気持ちになるには世界をそういう風に見れている
、或いは見ている必要があるが。その気持ちにならなければ世界をそういう風には見れない
のかも知れない。


つまり没入という言葉を使えば、その世界観に入り込んでいるという事である。現実をその
まま見ていると言っても、実際に見ているのはここから見える景色と、そして聞いている音
のような様々な情報と、ネット上で確認する事の出来る『事実』である。それをそのまま
見ているのはある意味では正しいけれど、時々そう見てしまう、その見え方を語っては
いない。世界観が安定しないと言ったけれど、幾つかの仮定の組み合わせ次第で、世界は
いかようにも見る事ができる。



まあそんな事をどうこうというよりは、自分がこれを続けている限り、続くような一つの見
方を続けたいのである。それはある意味で可能性の領域にある。現実の見えないところを
想像で補うように、


「こういうものがあるかも知れない」


という「仮定」で先にそういう世界を語ってみようという事だ。それは現実を少し遊離して
はいるものの、十分想像として許されるし、何となればいずれはそれは成り立たないと分る
ようなものかも知れない。


「こうなるかも知れない」「こういうものがあるかも知れない」


それは私にとっては『未知』だ。だが、後者については私ではない他の『誰か』が知っている
かも知れない。その『誰か』を実際に知っているというわけではないが、以前何処かで読んだ
り聞いたりした事の中で、時々それを信用してみたくなるような気分になる事はある。ネット
上の本当なのか嘘なのか、誤謬なのか、分らない情報の中で、それでも自分の知らない領域
があって、確かめる前に想像に任されている部分がある。音楽や小説の雰囲気、それを作ら
せた環境があったのは確かなのだろう。経験としては事実として語れない事も世の中にはある
と思う。というのも、自分もそういうものを実際に持っているからである。だからこそ、語れ
ないが、語れないからこそ、何らかのところに現れているようなものから、何かを感じ取って
「仮定」として浮かび上がることがある。あるいは、ある作品世界に没入する事で、全てが
確かに「真」だと思えるような状態になった時に、


「こうしかない」「多分こういうことなんだろう」


と思えてしまう事がある。推理してというレベルではないが、私も持っているけれどそれとは
違う、何かその人なりの見方を肯定するなら多分、そう思ったであろう事。



そういう情報、うまく言い表す事の出来ない全体性のようなものが、この語りを続けさせている。
多分、

「そうかも知れない」


という事に乗っているだけなのだろう。だが、そういう事を少し続けてみたい時があるのだ。



「じゃあ…」


と言って、

思考の始まり

「思考をする」というのは何よりもまず、当面確かだと思われる「仮定」を言語化して
立てるとか、受け入れるという事から始まる。分析的な思考もあるが、それにしても、
その分析している対象が「何なのか」という事、あるいはそれについて「○○である」
という命題を立てる必要がある。それはやはり「仮定」である。


「○○である」


というそれ以前までの常識としては自明でない事を先に立てる。そうしない限り、新し
い事は思いつかない。その「○○である」というのが偽であると証明されるか、真で
あると証明されるか、それとも証明も反証もできないような命題であるのかは、とり
あえず主張を把握していないと何も言えない。


つまり仮定となる主張をまず把握するところから始めるという思考がある。



何をきっかけに「○○である」、「△△でない」、という風に思うかは分からないし、
それをずっと固定観念のように抱きつづけたり、誇大妄想のように考え続けるか
どうかは人それぞれだが、それについて真であるか偽であるか思考する事はいずれ
必要かも知れないが、当面どちらかであると思ってそこから始まる思考、意識、想像
を追ってゆくのも一つの手である。そして真であるとも偽であるとも言えないような
何かについては精々想像を逞しく創作に用いるのが良いだろう。


現実的に思考として有用なものに制限して考えてみるのが地に足がついているやり方
だろう。

仮定に乗る時

個人的メモ

というところで『理性の度合い』というやや曖昧な言葉遣いで言ったものに
少し付け加えてみよう。


日常的な表現で「意識」とか「「我」が強い」というという風に言われる誰かの性格
や状態がある。疑心や新しい事を受け入れる余地がないとか、受け入れる事に対して
の態度の『堅さ』というものもよく言われる事である。


事実といえるかどうか分らない理論については受け入れるか否定するかに対して
さまざまな態度がある。論理的に思考する事が可能ならば、理論が「真とも偽とも
言えない」ような条件では、とりあえず「それを仮定したら」という思考を進める
事ができる。だが、どこまで「仮定した」思考を進めるのかは人それぞれだし、
時と場合によって違う。発想の柔軟性や、能力の問題だから、身体の調子も影響
してくるかも知れない。


「仮定」については「仮定」と断った上で思考すれば、それがいかに現実以上のもの
を語っているように見えても、論理的には問題ない。仮定が真ならそういう事も
考えられるだろう、というところに留まっていれば、それが「真」だと主張する
わけではないから、あくまで思考上の話である。それを主張とごっちゃにしてし
まう事の方が論理的…理性的ではない。


「意識」というのは一概には言えないところがあるが、基本的に現実の方に関心が
向いている限り、その内容は現実に起こっている事、実際にあったことを前提して
認めた上で保たれている。それを基本としても、時々精神状態によっては、ある
「仮定」を認めてみたくなることがあるかも知れない。酩酊状態では、認めたい
「仮定」を「真」だと信じて『行き過ぎて』いる場合もあったり、逆に疑心暗鬼
では一般的に「真」だと認めて過ごしているものまで疑わしくなる事もある。


「理性の度合い」という言葉で言い表すのには少し困難を覚えるのだが、それでも
このような、「仮定」を受け入れるか、受け入れないか、そして受け入れ易さ受け
入れ難さのようなものも、個人の資質や、経験、その時の環境や状況に依存してい
る部分はあると思う。たとえば眠りから醒めたばかりの時は、やや変な「仮定」を
受け入れて思考してしまいがちである。



責任を持って思考を発表するのは社会的な事で、基本的にそこに意識が向いている
時の方がきっちり把握していなければならないとするなら、度合いとしてはかなり
高いと言えるだろう。もっといえば、例えばより公的な場所で論文が受け入れられ
るか却下されるか、というところではもっと厳密な議論が必要という意味で、「仮
定」は「仮定」として区別している必要がある。とすれば、必然的に一度自分の
思考を検証している、冷静な意識という意味で、度合いとしては最大かも知れない。



それとは少し違う視点で、社会的かはどうかとして自分が確かに確認して自信の
あるものに限定したところから受け入れられる「仮定」で動く意識もある。自分が
実際に確かめたとか、何度でも確かめられる事実とは違うものに対しては、記憶
の正確さなどで自信に違いがあるが、ユビキタス社会となっている現在では検索
結果を当面信用するという事が普通になっていて、よっぽどの事でない限り、自分
だけを頼りに生きるというのはないだろう。とはいえ、自信が無い事については
変に気を強く持つよりも、納得できるまで確かめた方が良いのは確かである。そ
して確かめるまでは、自信が無いままでそれなりにやり過ごすという事も必要
である。



事実を事実として受け入れる事については問題はないが、理論的なものについては
受け入れられるかどうかはそれまでの経験や資質に多く依存している。数学的な
理論は自分で確かめて、証明を理解しなければ本当に理解した事にならない。数学
者が証明したという社会的事実をそのまま受け入れているだけの事も多い。


「仮定」を受け入れられるとしても常にでは無いことがある。一時的に、「そうかも
知れない」と思ってその仮定に乗って(真だと判断して)進む事もあるが、次の
瞬間疑わしくなってしまって撤回するという事もある。いまや新聞ですら証拠が
疑わしくなったら長年に渡って主張してきた自説すらも撤回する。



生活を続けていても「仮定」のままにしておくしかないような事もある。心理学的な
理論については、そういう仮定からの説明があって、納得できる事もあるが、常に
それで説明できているとは言い難い。とはいえ、それに責任を持って実際に仕事を
している人がいるならば、ある程度は信用してしまう事もある。研究が続いている
事については、それを「仮定」することによって説明できるようになった物事がある
という事で信頼感が増すという事になる。




色々語ってきたが、確かだと思われる事は、人それぞれ受け入れている「仮定」も
違えば、時間とともに変わってゆくし、受け入れやすさも人それぞれで、それも
年齢や環境などで違うという事である。ある意味で、何がきっかけで「仮定」を
受け入れるようになるかは予想できない。逆に、変な「仮定」をある日何かが
きっかけでおかしかったと気付くかも知れない。そして少なくとも「度合い」が
少し低い、意識が緩んでいる際には、通常なら乗っからない「仮定」を信用して
遊んでみたり、少しそのままの気持ちで気紛れをやってみる事もあるのも人の
筈である。


最近はやりの中二病も、その「ノリ」でいけるような意識のあり方で、乗っかった
まま演技のような、別な自分を進めてみる事である。とはいえ、常に現実(少し
前に辞書的に調べた「無視出来ない」それ)がそれを推し進めて良いのかの
基準になる。


食べなくても良いようにはなれないし、自分がイメージしたそこには無いものを他者
に共有させるのは、今のところ不可能である。言語や描いたイメージでそれを不完
全なカタチで伝え得るのみだが、イメージの方を伝えたくても、言語の方が比較的
はっきり分節されていて曖昧さがない。そしてしっかり伝えるためには定義をしっか
りさせなければならないし、それは言語で伝えるし、言語もしっかり定義するしかない。


となると、最終的には数学と同じようなものになる。まあこれは蛇足かも知れない。

苦痛すら

意味付けられない辛さというものはある。自分の今置かれている状況を意識すると意味を感じれないものがある。それは苦痛かも知れないし、意味付けられないという事も苦痛なのかも知れない。

ただある種の苦痛については苦痛が大きい分だけ何か大変な事をやっているという自分の意識は確実に高まる。満足に至りたいという欲求がつよければ、意識が精一杯やったという確実なものが必要である。自分にとって確実な苦痛がそれを保証してくれる。苦痛すら意味のないものではない。その種の苦痛は自分が満足に至るための証拠だ。


何の憂いもなくという理想、目標があるからそれを達成する為に必要な苦痛がある。苦痛と感じるというよりもそこまでに必要な事が意識される事によって辛いのだろうが、それでいて欲のあるところで言えばそこなのである。

意味づけ

何かをしているという意識があって、厳しいがその条件で生き抜く事を目標とすれば、人生というのはそれ自体で意味あるものである。納得した上で行ってゆくその道は険しいのかも知れない。だが確かにやりがいはある。

人間的に自分で意味付けられるという事こそがご褒美のようなものである。それは考え抜いた場合に自分にとって何かが何であるかが分かるように、自分にとってこの続いてゆくものがなんであるを意味づけたという事だろう。


「そうある事は決まっていて、それが続くだろうという事が確信できる。じゃあそれが何なのか。キツイけど頑張った事は自分がよく知っている」

自分がよく知っているからこそ満足なのだろう。

意味の

言葉の問題でもあり、認識の問題でもある『現実』。新明解の辞書によれば
「現在当面していて、それを無視する事ができない事柄」とある。そして
「当面」という語については、「さしあたり(対処・解決すべき事柄に出会う
事)」とある。



問題は主語である。誰が当面していて無視できない事柄なのかという事だ。
私個人なのか、集団としての我々なのか、人類なのか。さしあたり、とい
うニュアンスを意識すれば、さしあたり「私」が当面している事はどう
あっても無視する事は出来ないし、それを現実と言っても良い事になる。



たとえば私がこれを調べる直前の状態で、『「現実」とは辞書的にはどういう
問題なのか』という事に疑問を感じたとすれば、そういう疑問もさしあたり
解決すべき事柄であり、それに当面していると言える。それは疑問である
限りにおいて無視はできないだろう。もっとも、そういう事を調べるまでも
ない事として、よっぽど差し迫った生存の問題に関わるような状況では、
さしあたりには入らないかも知れない。


ただ、さしあたっての事なら、今言った事は当面しているといえるし、現実
としては、「私は『現実』という言葉の意味が曖昧だ」という事柄がある。
それに『出会う』というのは比喩的表現でもあるが、それを認識した時に
その現実に出会ったのだと言える。いやずっと前に出会っていたのだろう。
だからこそ、現実的な対応としては、それを先ず片づけるというのも正しい
と言える。



言葉の使用に限って言えば、例えば自分が「現実」というものを違うように
捉えていたとしても、それを違う言葉で表現する事ができればいい。そして
言葉が辞書的に従って正当に使用されて、その上でその私が「現実」だと
思うものをその言葉によって説明できれば、特に問題は生じない。



では、『現実』という言葉をこの意味として使用するとして、私がそれ以前に
現実と思っていたものとのギャップはあるだろうか?


『いま、ここ』


例えばこういう意味で使う場合もあるのかも知れない。だがそれは「いま、ここ」
は現実の全てではない。それは無視できないかも知れないが、それ以外にも無視
出来ない事はある。特に通信を介してするやり取りが無視出来ないものだとする
なら「いま、ここ」は通用しない。むしろそちらの方も「さしあたって解決する
べき事」として認識されることがある。




『さしあたって解決すべき事』

めも

現状を確かなものだと肯定しつつ、創造的行為によって何か違う事を目指すというのもまた人間の営みにおいては必然とも言える。

ひとつの

何か目的があって次になすことについて「これで良い」と言えるような結論を出すことは難しい。

確率的にしか言えないこと、その肝心の確率についてよく分かっていなければ尚更難しい。合理的に考えても難しい。

その上で今何をすれば良いか、はある程度確実な知識があると決めやすい。現実的な要請に従って、ある程度選択肢は狭まる。

が結論はでないまま、考えてゆくしかないのも確かである。逆に何かを選んだとしたらどうなるのかを想像するというのは一つの手である。

悪くはない

やりたい事が常に見つかるというわけではないし、「良い」と言える事を考えるのも容易ではない。だが「悪くはない」という事なら比較的容易に見つかる。
プロフィール

なんとかさん

Author:なんとかさん
ナンセンスな物語を書くつもりです。リンクフリーです。

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