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めでたいね

にゃんこにとってのその一日は摩訶不思議である。人は7時を越えたあたりからテレビに噛り付き、統一感のない音楽が矢継ぎ早に流れ暖房の効いた茶の間でにゃんこの安息は微妙に破られ、普段よりも気ぜわしくも思える人の反応ににゃんこは少し戸惑う。


挙句の果てにはテレビが静かになったと思ったら突然台所で料理が始まって夜食である。しかもずるずる音を立てて蕎麦を啜っている。にゃんこはそろそろ眠りたいと思う。でも一向に眠ろうとしないのでだんだん不安になってそわそわし出して、何かを訴えるように鳴きはじめる。


『にゃぁ~ん(ごしゅじんさま~いい加減に寝ましょうや)』


家の人々はにゃんこの事などそっちのけでスマホを弄ったり、成員同士にこやかな表情で何かを言い合って満足そうである。しかも殆どの人がお酒臭くて鼻が良いと言われているにゃんこにとってはちょっと迷惑である。


『にゃ~ん(無視すんなよー!!)』


にゃんこに気付いた一人が


「おお、そうだ今日はめでたいからお前にもご馳走をあげなきゃな!!」


と柔らかいごはんを皿に盛ってくれるのだが何でこの時間に食べ物をくれるのか分からないにゃんこは戸惑いながらも一応食べる。少し酔っているのかごはんをくれた人は赤ら顔で

「美味しいか?お前も今年で2歳になるな、今年もよろしくな!!へへへ」


と語りかける。にゃんこは飼主が機嫌が良さそうな事は分るがそろそろ眠い。


『にゃ~(ごはんはもういいから寝ましょうよ)』


「おお、水が飲みたいのか、よしよし待ってろ」


やけにサービスが良いのだが、水を交換してもらっても別に飲みたいとは思わない。にゃんこ
は思った。


<だめだこりゃ>



面倒くさくなったにゃんこは、飼主の腕の中で朝までめでたいというよりはめでられていた。





















(まだ明けてない)
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伝わるなら

分り切っている事である。分り切っていて「何にもならない」と冷静なまでに、醒めた
意識で考えているのに、そう醒めてしまう事が何か違うような気がしてしまう。意味を
考え始めた行為は、結果をあてにしているところより先には出ていかないし、普通は
それが合理的なのだ。


だが、このどうなるわけでもないと一方では分っていて、でも多分大切なことはそうで
はなく、それでも尚、そうしてみたくなる、そうしてしまう気持ちをなんとか言葉にする
という事なのではないだろうか。それに意味はなくても。



モノローグ的な状況で、ただ一つ分っている事は伝えたいと思っている相手に向けて、
届くかどうかも分からないけれど、できる事があるとすれば自分の言葉としてはっきり
外に出して、それを間違いなく「言った」という事のその先に自分が居たいという事
なのだと思う。



そもそもこの意識そのものが、冷静には成り立たない。届くかどうか分らないという
よりも届かないだろうという事が分らされているからである。それでも『届く』と思い
たい気持ちの部分が、届かないという事を割り切っている自分ではいけないと思って
しまうのだ。



信じて行くことの強さと、真っ直ぐさを素敵だと思った。だからこそ、それに応える
としたら、何か自分ができる事があるとしたら、そうあろうと思う事だろう。そう
あろうと思うから、この意識が続いている。



ただそうあり続けるから、歩みを停めないから分ることがある。示されたものが、
確かな意味をもって伝わる時、それを知ったからこそ自分からまた何かに向かって
この自分で諦め切らずに始めるという事が常に「先」なのだという事が浮かんでくる。




もし…なら。



私は自分が求めているものを探している。そしてそれは何かがあった時に、「これで良
い」と思えた時に手に入ったと気付くのだろう。そしてそう思えない間、その想いの
強さを知るのである。



その想いの強さを本当はただ、伝わるなら伝えたいだけなのだ。

言葉で

「愛している」という言葉は示す愛に比べると陳腐に思えるかも知れない。それでも相手が「言って欲しいと」思っている言葉かも知れない。

望んでいるもの

私は神秘家ではないし、『同一』という事については殆ど理解できない。近似的な
同一性などに留まってはいられないし、具体的な何かを常に見ているような気がす
る。ただ数学を勉強していたので『同型』という事については了解できて、実際
そうあるのではないとしても現実の対象を扱う手段として「同じもの」として見る
方法があるのだろうと思っている。


実際「同一」として扱う思考は単純である。大まかに、とか大雑把にとか、大体
とか、大局的に、というある種の厳密ではない思考と、出来事を衝撃の客観的な
ものから測れる「大きさ」で測ろうとする意識がある。



「些細なもの」を「些細なもの」として扱っている時点で現実を見ていない。はっ
きりいってしまえば、楽をして生きたいという事ではなく、どうあっても一回限り
で他には還元できないような事をそれとして認めていきたいという現実主義の面
がある。合理的には、当面生きてゆくために「同じもの」として見てゆく事が
必要なのかも知れない。しかし、それは何も語っていない。何も実際にそうある
ものを語っていない。




実際にそうあるものに届いていない言及は空想と同じである。空想の中で生きてい
けるならば実際にあった事を知らないままで生きているのと同じである。そう「同
じ」というより、実際そうなのである。



ほとんどの場合、大雑把に見た場合の思考を称賛しているよりは、大雑把み見たまま
で生きていられる事を羨ましいと思ったり、「気楽に考えても生きているんだな」と
自信を深めるだけである。



『真実』とか『真理』に対する欲求ではなくて、そういうものを追い求める時の辛さ
の前に挫折して分り切った事の中で揺蕩っている時間を求めているだけなのだろうと
思ってしまう。そうではなく、実際に起こっている事の中で、実際にそうなのだとい
う事に辿り着いた、或いは実際に起きている事の中で、余計な項など与えない、その
生きている事自体が素晴らしいものだと思えるように行動し、求めてゆく事の方が
妥協していない。



何か余計な項が『本当』にこの世にあると思って、一切振り返らない生き方ができる
なら、それは全て嘘であって、本当である。その信念の前に死ぬ覚悟が出来ていない
ような信念は、それが続くところまでが「茶番」であるようなストーリーである。結
局死ぬことよりも普通に生きてボケボケしている生活を送る方を求めるならば、それ
が本当に求めているものだろう。



その茶番が無くなった、ただ確かに自分がそうだと思うものに全てを賭けてしまえる
ような選択をしてきたけれど生きていようと思う事以外に本物がない。その醜いまで
の執着が『悪い』としても、生きていたいと思ってしまうというのが本当である。




本当である事以外は嘘をつけてしまえるのではないだろうか?私は「本当だ」と思って
いる事が極端に少ない。結局こういう激しい事を書いたとしても、日常生活では自分の
中の平安を守り、余裕をもたせるように生きている。でも、余裕をもたせるために無理
をするような事は疲れる。結局、望んでいないのである。



望んでいないものは望めない。望んでいると自分を誤魔化して上っ面の自分で考えたり
喋ったりするだけである。逆に望んでいるものには本気なのである。

徒然ファンタジー12

猫にとって人間社会の風習とはおそらく奇妙なものであろう。同じ人間でも別の地域で当たり前のように行われている事に対して奇妙に感じるのだから、海外だったら余計で、猫にとってのカルチャーショックのようなものは微妙に異なるライフスタイルよりも明らかに普通にはやらないような人間の営みに対して明確に感じられるだろう。


例えば迫りつつある本来的には外国の文化であるカボチャのジャックオーランタンが奇妙にも街中に溢れるその風習などは人間が明らかにいつもと違う格好で街を練り歩くような場面が間違いなく見られる。これなどは商店街を平和にうろついている野良猫からは狂気かつ脅威であり、いい迷惑なのかも知れない。猫はその風習の意味を知らず、ただ実際に起こっている「人間が奇妙な格好をして集団で移動している」という光景を見せつけられる。というか、そういう風習があると知ってなお、この国の中ではやはり異様な光景であるとも言える。



徐々に秋らしくなり始め、着ている服がだんだん厚くなってきた頃のこと。リリアンは例年とは違ってこの年のハロウィーンを楽しみにしていた。彼女はもともとはお祭り好きな性格なのだが、どうしてもまだメジャーになり切れていないイベントで仮装…場合によってはコスプレを披露するのは敷居が高いと感じていた。年を経るごとに浸透してきているとはいえ、サブカル臭がしているのでどうしてもそういうものに詳しい人が身近にいないと勝手が分らないというのもある。



ただ今年は別である。リリアンは同居人にして猫であるジェシカが変身する際にオマケのような能力で服装を自由にできるという事を知ってからというもの、その能力の有効な利用法を徐々に発見し始めていて、例えば何か面白い服装があったらジェシカに絵や写真で服装を説明して実際にそれに着替えさせたり、いまやキャラクターの定番となったゆるキャラのような着ぐるみをイメージさせて簡易版ゆるキャラを誕生させていたのである。猫にゆるキャラを演じさせるというシュールな状況でありながら、


「ジェシカ、ダメよ。『ケロ子』はそんな喋り方をしないわ!!」


「えー、何で?っていうか、前あんまり見えないよ…」


と設定に関しては厳しいリリアン。そういう事を練習していたお陰で、ハロウィーン当日にはかなり凝った衣装でコスプレさせる事が出来そうであった。だがジェシカは素朴な疑問を口にした。



「どうしてこの格好で外を歩かなきゃならないの?」


「だって、そういう日だからよ」


「ご主人さまのその変な格好は何なの?」


「ゾンビね」


「『ぞんび』って何?」


「死んだ人間が生き返った姿よ」


「何だか気持ち悪いね」


「そう?かわいいじゃない」




リリアンの説明はいつも何か不十分である。ただ某有名猫妖怪の着ぐるみを着ているジェシカの格好の方が事情を知っている人にとってはもっと説明を要求すべき事なのである。リリアンはちょっとした思いつきで、


『猫妖怪のコスプレをしている人間に変身している猫』


という複雑な状況を生み出した。多分、彼女にとっては「何となく面白いから」という理由だし、何より流行りものだったという事もある。ただ、考えれば考えるほどアイロニカルに見えてしまう。もしシェリーがこの光景を目撃したら、


「ジェシカは人間の格好で歩いているだけでコスプレみたいなもんでしょ」


と言いそうである。的確だ。


さて、アパートからそれほど遠くない商店街にやってきたリリアンとジェシカ。仮装している人がぼちぼち集まっている。が良くある事だが見物客の方がわりと多い。物珍しそうな視線には、「自分はやりたいと思わないけれど、写真でもとってネットにアップでもしようか」という物欲しそうな様子もある。特に良く出来たブームの猫妖怪が現れてからは異様な熱気になってしまい、ようやく人混みに慣れてきたジェシカも流石に当惑していた。


「ご主人さま…これ、どうしたらいいの?」


「適当に手を振ってればいいわ」


その通り実行すると、それで何とか上手くいった。この国の人々はゆるキャラの扱いには慣れ過ぎている。もはや相手が設定的に困るような事は要求せずに、可能な範囲で動いてもらって満足するのである。ゾンビと化したリリアンは不安そうな様子の猫妖怪と手を繋ぎ、規定のコースを歩き続けた。集団が通り過ぎると沿道から声援が起る。


「どう?ジェシカ、結構おもしろいでしょ」


「なんかみんなに見られてるけど…」


「褒めてくれてるのよ。できが良いからね」


「そうなのか…みんな喜ぶのか…」



この日は何事もなく終わり好評だったのだが、後日この日の事が原因でちょっとした出来事が起ることになった。

自分へ

なんとなく中途半端だからという理由で書くけれど、『何かを目指して』ではなくとにかく
『こうしたらいいはずだ』という方に歩き続けてみるという事が何かの始まりなのでは
ないのかなと思ったりする。


ほとんどの場合、どうしたら良いのかは分かっているはずなのである。ただ「仮にそうした
として何が得られるのか?」という分らなさが歩みを留めてしまいがちである。その際に感
じる『ナンセンス』感。


「どうして動き出すのか?目的もないのに」



このナンセンス感の中でそれでも「どうしたら良いのか」という事について知っている事を
『とにかく』続けてゆく。何か目標があって一生懸命に、我武者羅にそうしていた頃のように
ではないかも知れないが、着実に続けてゆく。



確かなのは、『そうしたら良い』と思える事を続けていけば、何かが起る、何かが分る可能性
があるという事である。考えてみたら、


『何かが起るかも知れない』『何か分るかも知れない』


と思えただけでやろうと思っていた頃があったような気がする。「今更何も起こらない気がする」
そんな想いがあるのは確かだ。でも、そんな気持ちになってもまだ歩きつづける事が出来るそんな
タフさがあれば、乗り越えてゆけそうな気がするのである。



少なくとも今の自分では、自分が知っている事では駄目なのだ。だからこそ、何か違うものを探す。
知ることによって自分は変わる事が出来ると思う。だからこそ、変わった自分に賭けようとする力、
一歩が自分には必要である。

解釈の仕方

解釈の仕方で微妙にリアリティが異なるような場合がある。起きた事について整理をする場合に、常識的な判断のリアリティを選択してみるところから始めた場合に、それでうまく行かなくなるような事が思い出されたりする。

その時に

死の瞬間の事を考える。とにかく一生懸命やったならば後悔はないだろう。やれるだけのことをやれば、仕方ないと諦められる。

満足という事を考えるなら、満足になれそうな事を見つけるという事から始めるべきだろう。無かったとしても探し続ける人生がある。

普通の努力

全国的に大雪になっている。日本という国は本当に『自然』のイメージが荒々しい
ものになりがちだ。厳しい環境でごく普通に生活しているという事が時々知恵や
工夫なしには成り立たないのではないかと思われるほど、考えなくてはならない
事が多い。


人為によるものではない事は当たり前だが良いとか悪いとかではない。実際そうなの
であって、それが人間にとって、人間が生活し、何かをしようと思っている事に
対して都合の良い都合の悪いがあるだけなのだろう。人間の生活ではどうしても
『決まっている事』や『そうなるであろう事』を中心に考えて行動を決めるように
なっている。予定通りにはいかないとしても、予定をこなしてゆかなければ進ま
ないという事情がある限り、都合が悪くてもどうにかやりくりしてゆくしかない、
そう了解している部分があるだろう。



対策を考えて用意、準備しておく。それしかないのだが、そうは言っても豪雪地帯
の雪かきなどは最終的には体力を使ったり作業をしなければならない。ニュースで
「日常を取り戻す」という表現を使っているけれど、それがこの季節の日常とでも
言えるような感覚というのも一方ではあるような気がする。



どうしても『日常』というものの『恙なく予定がこなされてゆく』という状況への
要求は高い。実際何とかなっていても、そういう状態を続けるための努力もかなり
あるような気がする。

ただ

自分の心を誰かに素直に見せる事が出来るとして、それは心を許しているという事で。

感じているものを伝える事に意味がありそうだと想い続ける事が出来るだろうか?それは何になるのだろう?この世界で。


ただ、何というかどうにもはっきりしない。どうにもはっきりしないけれどどうしようもなくそれが本当なのである。



ナンセンセンスがナンセンスになりそうなところで、多分、軌道を変えなくてはならない。あると思う方向にしか進めないとして、あると思うものの方に行くしかない。そう思う。


プロフィール

なんとかさん

Author:なんとかさん
ナンセンスな物語を書くつもりです。リンクフリーです。

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