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ここまで来た

逆に何かがある日の方が珍しいだろう。


平凡すぎると言っても、それさえ精一杯の結果だからこれよりも望む事の方が酷ではないのか?ぼんやりとだが満ち足りるという事を覚え始めている。諦めではなく、実に納得するように世の中というのは出来ているようで、誤魔化しの効かない現実に偉大さすら覚えてしまう。


それを確認したところで何にもならない、と思って別な事を考え始める。覚えているほどの事でもないような緩い発想に身を委ね、定刻通りの電車を待つ。風はないが冷たい待合室。老婆という程でもない齢の女性も縮こまって待っている。


『彼女にとって現実とはどんなものなのだろう』


漠然とした思考が一瞬言葉になる。内容からして深くは考えられない。自分には知りようのない事。けれどそんなに違わないのではないだろうかと思ってしまう。


それぞれの人生だから、自分とは違ったところで何か苦しいことがあって、そして喜びもある。



僕の喜びでない喜びがあって、僕の苦しみではない苦しみがある。それら全てに共感できるなど幻想でしかない。もっとも、似たような状況になればおのずと分ってくるだろう。それでも今目の前にいる人を見ていると、「そんなに悪くないぞ」と言いたげな様子だ。



結局、こんな風に待っていればいつかは電車がやって来て、多分良い事もやってくる。その間には今日みたいに何もない日だってあるだろう。時間の掛かる事が、今日もまたじっくり取り組まれているのだと思うとそんなに悪い気がしない。


『でも、電車みたいに定刻通りにはいかないからね』


と自分に言い聞かせた。


「電車来た」女性が呟いた。それは多分自分で確認する為に言ったのだろう。確かにゆっくりと電車が近づいてくるのが見えた。



何処にでもありそうな光景だから、なんだか安心した。自分のこの想いすら、どんな人にでもあり得るだろう。


「ここまでは来たんだもんな」


そう呟いた僕は電車に乗り込んだ。
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自分の

ある自分はそれ自体ある強度で続いている存在であろう。強い、或は弱い心に対応している。自分ではないように思えつつも、あるところまでしか本当の事として捉えていないような意識でもある。

ブログを書くという事は社会的な行為ともいえますし個人の中で完結している行為のように思える事があります。この頃はブログという媒体は一般的なものとして認知されていますし、当然に社会的な活動と見られるようになっているでしょう。ただ市民の立場で書いているので、ほぼ発言の影響を考慮する必要がないので意識するとすれば知り合いに知らせてあるという理由でその辺りに配慮するという事くらいです。


唐突ですが何かのきっかけで知り合った人とカラオケに行くことが多いです。そのカラオケで歌いたい曲を熱唱して違う秘められた一面を見せたいという理由もありますが、もともと何らかの音楽活動をしたいと思っていたのです。といってもあまり良いパターンではない『歌だけ』一生懸命なタイプで、専らカラオケだけなので音楽活動にならないといえばならないのですが、ならそれでもいいかと思い最近YOUTUBEでカラオケで歌った音源をアップしはじめました。


これは単純にそうしたいからですが、以前ここでも『文章だけでは伝えられない』とか、言葉として出てこない『弱い』なにかがあるという事についても、歌で伝わる部分もあるなと思っています。



思考の後には『活動』が大事だといいますが、これも一つの活動だろうなと思います。歌う事でどうなるわけでもないという気持もありますが、少なくともそれも平和の形なんだろうと考えています。ページは、


なんとかさん


になります。今こういう風に考えてみて、少し続けている創作の方向性も見えてきたような気がします。

迷いながら

抽象的な事を書いて言ったつもりになっても心中穏やかではありません。なんというか書いても「無力さ」を感じながらなのである種の無意味感を感じながらしか書けないのですが、誰かの言った事を意識するからという理由もあると思いますがここ数日のフランスの事件は実際に脅威が迫っているという気持ではないにせよ、他人事という態度でいる事が何となく嫌です。


とはいえ自分の意見を述べていったとしても基本的にはどうにもならないという事を承知しているので、騒ぐだけ無駄だと思う部分もあります。綺麗ごとだけではどうしようもないと思い知らされるものの平和を願わざるを得ないし、けれど一方でその平和はいつも局所的なものではないのかと疑ってしまいます。


相手を理解しようとせず、すぐに否定する事は間違っているのかも知れませんが少なくとも常軌を逸していると思われる行動を肯定する事は出来ないし、対話の意思があるかという事を疑わざるを得ないような行動を実際に見せつけられた時、「それはやはり違うんじゃないのか」と先ず言って明確に非難する事も必要なのではないかと思うのです。


でもこういう意見ですら本質的な事ではありません。あくまでこれは事件に対して述べられた事に対する意見であり、そこに終始している限り現場とってはノイズでしかないでしょう。あくまでテロを肯定することは出来ないということは一致している筈なので、中身が無いように思われるとしてもこれからどうするのかを見守ってゆくしかないのかも知れません。


ただ、こういう時には流石に素朴に「全てに意味がある」というような発想は下品だなと思うのです。というかそれは明確に否定すべきだと思います。全てが一体となって同じ方向を向いているというようなファンタジーは何の慰めにもなりません。明らかに、対立があって悲劇というしかないような事が起っている。それをファンタジー的な『全体』の高みから語って統一的に扱うだけの発想は私個人としては現実逃避以外の何ものでもないと思います。



と、その意見ですらやはり意見の違う人を否定しているに過ぎないといえばそれまでなのですが、宗教的な発想の根元のような気もするのです。がまあ、それはいいとしても、やはり暴力によって何かを達成しようという考え方は否定しなければならないでしょう。それが前提でさらに暴力に対して無抵抗というのは危険すぎると言うしかないです。もし根拠もなく無抵抗で居続ける事を『強要』されるなら、それは愚かだとしか言えないと思います。


主張を実現する為の命がけの無抵抗をする覚悟がある人ばかりではないのです。そして合理的に考えれば本来は自分の命を守る事が先にあると思うのです。

全体ではない

全体という言葉が好きではないというか、それは「全て」を言い表す言葉としては不適とさえ思える事があります。それを「全体」と呼ぶ時点で「体をなす」ものとして見ているのです。むしろ正確にいえば「全て」は見えるものではありません、常に部分とか局所をもって「全体」と呼んでいるに過ぎないのです。


「全て」には未知なるものが含まれていて、「全体」の統一を崩すものすらありうると思います。そして部分と全体は一致するというような事は数学においてもある特別な場合でしかないのです。というか部分と等しいようなものに「全て」を限定して全体と呼んでいるに過ぎないとさえ思います。


では「全て」の方にある全体の分脈からは語れないものが「個」でしょう。全体における位置的な関係が文脈と呼ばれるなら、個にはそういう意味での文脈が存在しません。むしろ「個」と「個」としての関係が形作っている限定された統一感があるとは限らない『自分にとっての全て』があるだけです。その「全て」の描像は常に動いていて、全体と呼ぶにしても移り変わってゆく全体です。安定せず、特異的なものも含まれている『自分にとっての全て』が現実なわけですから、誰かの語る全体はファンタジックな『設定』です。


その『設定』から脱け出している、語れないものを無視するか排除するのが全体のエコノミーだとすれば、やはり『全体』という言葉は好きになれないのです。むしろ「全て」の方を意識しているべきなのだと思います。

変わる時

実在ではないある強度の他者を意識するものにとって、ある強度の他者のある強度での存在を感じているのはそれを感じている間である。

つまりその存在を感じなくなった場合にはその自分ではなくなる。

追記:そのある強度の他者を存在と感じている自らも、それと同じ強度の存在でしかないのかも知れない。

その上で

信じたり信用したり常識的な判断をする事も必要だし、それは基本だが同時にその上で何か違和感を感じた場合に懐疑を抱くという事は決して理性的でないのではない。

ファイナルにならない

時が経つのは早いように思っているとして、じゃあこの進まなさはなんだと戯ける。
からかい易いエンペラー的な存在をしたててみても、一時の熱意外はあったことすら
忘れるような何か。


綺麗な何かを想像して、無いのを嘆いて。その嘆きすら嘘らしい。



仮想の火葬。



でも確かに繰り返されてきた事だろうなと思って涙を流す。繰り返されるであろう事
にはなむけの言葉を。

弱い『伝えたい』

ツイッターというのは積み重ねてゆく内容というよりは単発的で、個人的な事を語るよりも動いている社会の『今』の関心事について意見を述べたりリアクションするという事が求められていると感じる事があります。過去に書いたものを前提するようなブログは個人的なものになりがちですが、自分にとっての今を大切にしたい場合にはこちらの方が良いかも知れません。


そもそもツイッターの場合はそこに『参加する』という感じが強いですが、ブログの場合はあくまで『訪れて』くれた人を相手にしているので読者が居た場合には記事を『読んでいる』事を期待できるので多くはありませんが確実な感じがあります。ツイッターの場合は『目に留まる』という表現の方が適切かとも思います。



さてそんなブログで実際に何を述べたいのか自分でも良く分かっていないというのは本当です。ただ感覚的に表現したい事があって、言うなればそれは


「〇〇でない」し「△△でもない」し…


というように定立し否定し限定してゆく事でしか近づけないようなものだと思うのです。このブログでは「ナンセンセンス」だとか「特別な事」だとかある程度統一したカテゴリーを作っていますが、感覚的な問題で「それではない」と区別できるように作っているという意味があります。


限定してゆくなかで、確かに何か…とすらまだ呼べないようなところに近づいていると感じるのですが、結局


「〇〇でない」し「△△でもない」し…


という何かに対応するような言葉がないとすれば、まさにそういうものなのでしょう。仮にそれを述べる為の壮大な過程があり、途中で出てくる何かを一時的に定立する事が『茶番』のように見えたとしても、それが必要であればやはり述べる必要があります。



まあこういう事も述べたい事ではあるのですが、肝心なことにはまだ届いていないようです。



ただはっきりしているのは「何を伝えればいいか」という事に悩んでいるという事です。多分そこに『弱さ』が関わってきます。『伝えたい』という気持ち自体が弱いのだと思います。強く伝えようとしない限り、出てこない、そんな感じです。



では、その『弱さ』で『伝えたい』と思っている事は、何になるのでしょう?

弱々しく続く

『弱さ』について述べるというのは案外難しいものです。書こうという想い自体が弱いものは書くまでに至らないで燻っています。或いは『弱い気持ち』を表現しようとしても言葉にならないという事が多いのではないでしょうか。


確信に至らない何か、或いはそう思うだけの事、そういうものは『ある』のはあるけれど外に向けて表現する段階になって躊躇いを生じ、書かれないままになっています。けれどそれなりに動くような弱さもあります。それを完全に否定するのも違うし、かと言って強く肯定したつもりになっても続かない。



その『弱い何か』を見ないようにして、強く動いているところの続きを行こうとしても意外に上手くいかない事に気が付きます。弱くても自分がそう思っている事から始まるのだとすれば、「そう思っている」という事を忘れていては次が無いからです。


『弱く』そう思っていても、そう思っている内容が無いのとあるのでは全く違うような場合もあります。弱く自信はないけれど、そう思っていると「これでいい」と思えるような時。






弱々しくも何かは続いてしまいます。
プロフィール

なんとかさん

Author:なんとかさん
ナンセンスな物語を書くつもりです。リンクフリーです。

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