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ことしさいご

ようやく時間が出来たので一休みしたいところ。大晦日にする事は特に無いので夜は酒を呑みながら紅白を見て良い気分になっているだろう。そういう時間がずっと続けばいいけれど留まっていられない。2日は既に作業が待っている。


<さぁて、どうすっかなぁ…>


時間が少しでもあると何か勉強をしたいと思う。こういう日でも例外ではない。けれど見るべき時にはしっかり見る方が良い。今年の終わりがどんな感じだったか記憶に残るように。
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年末だから

さすがに2015年が終るという実感が出てきてテレビでも今年の総まとめに入っている。だが今日も坦々と作業をしているのは変わらない。世の中的には一段落だとしても物流は絶えず続いているし、むしろ人の移動が激しくなればそこにビジネスが生じるのもまた事実。


そう決まっている事で、それに合わせてシステムを合理化してゆくとますますその流れに乗らなければいけないような気にもなるがそれも悪くはない。気のせいか日中電車に乗る人が多いような気がする。それも結構な厚着で、子供も目立つ。



こんな時には「何か面白いことは?」などと追い求める必要はない。既にして望んでいたような事が実現している。

知によって

宗教臭いのは苦手だ。もともと数学の証明の厳密さを基準に考えているので「納得」という
部分を誰かの教えだからという理由で受け入れるのと同じレベルで考える事が出来ない性質
である。もし単純に真理であるような命題だったら宗教でなくとも納得できるだろう。


実際に生きていろいろ体験して実感しないと分らないような命題、言葉もある。例えば『運
命』という言葉も昔とは違う意味で了解している。昔は「そうなるしかない」「既に決まっ
ている」というニュアンスで了解していたので自分の能力がどれくらいのものかがまだはっ
きりしていない間は懐疑的だった。けれど、そういう風にではなく例えば「どうあっても無
理な事がある」「不可能」というような線から運命を緩く了解するなら、『奇跡』としかい
いようのない確率、偶然の連続があって初めて叶うような事はやはりどうあっても起り難い
のは確かだし、そうなるとそうなる確率が高いような事というのは運命的だとも言える。


競馬でも時々そんな事を考えながらレースを観戦している。大穴が勝つ事がある。けれど
まったく理由がなく勝つという事はないと思う。何故なら物理的に運動している動物の事
象だから、分析していけば運もあるけれど勝ち易い条件にあったのだと考えることも出来
るからである。


全くあり得ないと思っていた馬が来た場合というのが面白い。結果としてはそうなったのだ
からそうなり得たのだと後から分るにしても、主観というのか自分の考えの中では「不能」
とか「奇跡」レベルの事として退けていた事が実現したという事になる。


逆に必然というくらい必然で、どうあっても負けるような事が無いだろうと思えるような
レースもある。何も競馬に特別な事ではなく大人と子供が力勝負をしたら大抵大人が勝つ
という事は分りきっている。そういう次元の勝負が時々ある。数学的に数値化できなくと
も漠然と起こり易い事というのはあるのだろうと思う。



そういう感覚的な「必然的」とか「奇跡的」という区別が出来ていないような『期待』と
か、物理的に確かめられている事を無視しないと実現しないような『期待』が散見される
発言については白い目で見ている。



心情的にそういう事でも起こらないと乗りきれないから…とそういう言葉を信じてしまう
事もあるかも知れないが現実や事実を否定し始めるのならば危い。



どういう事が起り易いのかが分っている、またどういう事が起り難いのか分っているとい
う知が重要だ。そう分っているから期待し過ぎない。期待するとしてもその知を前提して
裏切られても仕方ないと覚悟したうえで期待する、そういう思考の果てに可能な事という
のは見えてくる。納得していてよく世界や世の中を知っているからこそ「意外」な事が分
って面白いと思う。折り合いをつけるために必要なのもその知である。



その上で少しでも良い方向をと可能な事を努力して実際に叶える事が出来たならばその方
が偉大だと思うのである。


追記:

もはや過去に書いたのと同じような内容しか浮かばなくなってきました。時が経っても再確認できるという事には意味がありますが、ブログ的にはそれほど意味がないのかも知れません。

踏み出す一歩

求めることは時として愚かだ。単純にそこに在るものを肯定できないだけなのではないだろうか。
とは言え在るものに留まれない、それも確かだ。


だから愚かにも求める。そんな自分が嫌いじゃない。

それは何?

退屈極まりないような毎日に意義を見出し続けることも大切だが、そこに満足せずに良いと思える
ものを積極的に求めるという事もまた重要だ。


『不満足』


そう思う自分を否定する事は出来ない。そう思う事が今で十分だと言う人にとっては余計なものに
見えるかも知れない。ならば余計なのだろうし『不満足』と言う時点で贅沢にも思われるのかも
知れない。



けれど、多分そうではない。無理に肯定しようとしても肯定できないならもう進むしかない。



それだけの事だ。

意味が無くなる時に

しばらく「そう書こう」と思って書いてきた。


それも悪くないけれど、無理に書く必要はないと言えばそうだ。じゃあ積極的に書きたい
事があるかというと特に見つからない。


良くも悪くも世間並みの感覚で判断している。自分にとって重要な事でも世間にとっては
大した事ではないという事が大いにある。それも忘れていない。



今の自分を否定する事は出来ない。自分が良いと思うことは良いと思っているし、何かを
肯定しその先に行く動きを否定するなら何も出来ない。とは言えあくまで過渡期にあると
するなら全てを肯定しているのもまた無理である。今が何でもない事のように思えるよう
な時が来たら、それはそれで今の自分にとっては切なくもあるし、将来の自分にとっては
ごく普通の事なのだろう。



あくまでその時その時の自分にとって意味がある事が重要だ。だとすれば変わってしまっ
た自分に否定されるという事もあり得るだろう。だが厳密にはそれは否定ではない。あく
までその自分にとっては意味が無くなってしまったという事であり、相も変わらず同じよ
うにその時の自分にとって意味ある事を続けている。

ザ・クリスマス

クリスマスをやり過ごし、何故か一人カラオケに行ってクリスマスソングを少し歌う。


マイペースなのは良い事だ。少なくとも自分で決めて動けているじゃないか。


店に行く道であられのようなものがちらっと降った。微妙にホワイトクリスマスと言
っていいのか分らないけれど、世間では既にクリスマスは終わったような扱いである。


雰囲気を大事にしたい。でも作り物では嫌だなと思う。


調子が良いので何故か春の歌を唄おうとしたが、流石にそういう季節ではなかったので
途中で辞めた。


やっぱりどこかで季節を意識しているし、季節の歌は気持ちが自然と入っている。


(改行ばかりしてますけど、何となくボソっと呟いている感じを出したいので…)



明日になったらもう振り返らないかもなと思いつつ、来年の今頃にはまた思い出す。
そういう事も大分分ってくる齢になってきた。



(無事に迎えられる事を祈って)

この意味で

強度の体験という意味なら本来の意味ではない意味で心理学的な「死への願望」というものもあるかも知れない。

それはその強度の体験の主体の死を望んでいるという事だろう。

重みを感じつつ

さらっと翌日になった感じ。今日は忙しいと思っていたのに案外だったのでゆとりを持って過ごせる。頭の中で大層な計画を練りながら帰宅していたけれど、温かい大気に包まれ何だか陽気な気分になってくる。


けれど足は比較的、(物理的にも)重い。体重はそれほど変わっていないけれど、歩くたびにじわっと来る重い感じは昔ほど快活さが無くなったという事なのだろう。というか普段から身体全体にずっしりと現実で生きる事の重みを感じているような気がする。


嫌な事を考えているのでもなく、寧ろ当然という事を数え意識し始めるとまるで身体が鎧を着たように重くなる。合理的な思考は普段の生活で無駄にエネルギーを消耗する事を避けさせるのか、余計だと思った行為に身体が着いてゆかない。逆に、当然しなければならない事ならば特に意図せずに力が発揮できる。


昔は何でもかんでも全力で動けていたのかも知れない。無意味にエネルギーを消費するように動き回っていたしモチベーションもあった。けれど一旦目標を見据えて構え始めるとエネルギーの使い方が変わってきたようで、実際にやっている事のハードさは昔と変わっていない。



頭の中をぼんやり巡っていた大層な計画も、実はその先のちょっとした希望だったとも言える。気の長い話で、数年とかそういうレベルの話ではなく人生を見据えての思考だった。そこを見ているならば、やはり家に辿り着くまでの一歩ですらそれなりに重みを持つような気もする。

いい

活動はしてきたと思う。どうすればいいかあれやこれやと考えて、何となく望んだところにきた感じ。
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Author:なんとかさん
ナンセンスな物語を書くつもりです。リンクフリーです。

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