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それで


伝わると思っている、信じている、期待しているがゆえに語れることがある。語る事が無意味にならないと思うからこそ言葉が出てくる。それはある雰囲気=ちゃんと聞いてくれるとかそういう風に思えている、或いはそういう感覚なり情報が得られているという条件の中で可能になってくる語りである。


投げやりなものではなく、ある程度期待があって誠実に話せるようになっている、けれど必ずしもすぐに分かるような事ではないそんなメッセージがあるとすれば詩(もしくは散文)のようなものになるのかも知れない。いうなれば…


もちろんそういう語りもナンセンセンス的なものである。むしろ原義の筈である。ナンセンスにしか聞こえない物言いを、真実を伝えているものだと受け入れられる条件というのはかなり限られている。場合によっては受け入れられる…という主体の判断からくる感覚もナンセンセンスの元々の意味である。だから定義としてはしっかりとあるけれど、それを『ナンセンセンス』と呼ぶ者が居ないだけとも言える。
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差異の

仮想、強度の存在と存在との存在論的な差異を考えてみる。これは非存在と存在との差異だけれど、具体的に語れる。


強度の存在と存在とは何がしかの差異があり、それは同じ項ならば存在論的な差異である。強度の存在としてのある項には不能で存在としてのその項には可能な事が差異となって現れる。


幻がその存在性ゆえに主体にはどこまでいってもあるレベルまでのリアリティから生じる具体的な行動しか起こさせない一方で実在は「ある」という確信による行動なり構えを引き起こさせている。存在には存在するがゆえの必然があるだろう。幻にはそれを引き起こすことは不能である。


一方である主体にとって存在するものが強度の存在であるのか、存在そのものと同義なのかはなかなか難しい問題である。主体があたかも存在しているようにではなく、存在するものと同じ意味で存在しているとして振舞っているなら、少なくとも主体にとっては存在している。が、存在が世界を構成しているものだとするならばその定義の存在ではない。これも存在論的な差異である。(追記:ただし、ここでいう世界は現実世界である。もし強度の体験の主体と存在とをあわせた全ての「世界」を想定するならその意味においても存在という定義は満たされる)



ある主体にのみ感じられる強度の存在ではなく、他者にも感じられる強度の存在があるといえるかどうかは想像の話である。


一つだけ確かな事は、ある主体にとっての強度の存在が存在との存在論的な差異を見出せない事があるとすれば、それが主体の行動や構えによって存在を錯覚させうるという事である。


掌のワインディングロード ㉔

3月は何かと変化のある月だと思う。冬の厳しさも和らいできて、世間では卒業シーズンでどこかふわふわしているようにも思える。私の仕事場でも2人ほど辞めることになって「ママ」から、


「聡子ちゃんも辞めるってことはないわよね…?」


と確認されたりした。「もちろん」と言うつもりが「いまのところは」と曖昧な返事をしてしまった自分に少し驚いた。どこかで今のままを望んでいないのかも知れない。「ママ」は


「まあそうよね…結婚とかあるもんね…」


と神妙な顔つきで続けたけれど、それは諦めのようにも見えた。諸行無常という事ではないけれど、この頃物事の流れには逆らえないようにも感じてきて、景気とか運とかそういうものは自分ではどうにもできないのだと思うと若干無力感を覚えたりする。同じようにこの仕事を続けている人の事情が色々あるのだという事は言うまでもない事だけれど、限られた選択肢の中でそれでも精一杯自分の選びたいものを選んでこの場所に居るのだと思う。



だからここからまた精一杯選んで、次の場所に向かう人がいるのは必然なのだ。



私には珍しくそんな風にちょっと黄昏ていた水曜日。もう一つ珍しく勇次が昼食を作ってくれていた。勇次の得意料理はパスタで、その日はミート―ソース。タラちゃんが少し大げさに絶賛するくらいには美味しくて、ホールトマトからミートソースを作っただけの事はある。勇次はこういう手の凝った調理をするけれどその分料理をする回数が少ない。不満というほどではないけれど、居酒屋料理をちょこちょこっと作ってくれるタラちゃんみたいな料理の仕方でもいいような気もする。3人で料理を食べているときに勇次がこんな事を言った。


「そういえばさ、この前中山記念勝ったドゥーイット、ドバイ行くんでしょ?」


それはタラちゃんに向けられたものだったけれど実はその週中山競馬場に行く予定だったのが、私の仕事で辞めた人の穴を補う為に急遽土曜日の夜も入るように頼まれて日曜日はちょっと出掛ける体力がなかったから行けなくなったのだ。テレビで観戦していたから結果は分かっているけれど何となく物足りなく感じてしまった。ドゥーイットはそのレースを勝った馬の事だ。聞きなれない単語が出てきたので私は訊ねた。


「ドバイって、あのアラブの方の?」


「うん、そうだよ。あの砂漠のっていうか石油マネーのドバイだ」


ずいぶん単純化している言い方だけれどその後の話を聞いてそういうのも仕方ないなと思った。タラちゃんがこう言った。


「ドバイはとにかく金持ちで、物凄い金を掛けて競馬場を作って凄い賞金のレースを一日で全部やっちゃうんです。ドバイデーと言われています」


聞いただけではなかなか想像が出来ないけれどとにかくそういうものなのだと了解すると勇次が続ける。


「馬を飛行機で運ぶっていうのも凄い話だよなぁ」


「あ…そうか…そうなるよね」


他にもスケールの大きな話が続いたので私はそんな世界があるんだなぁと感心してしまった。


「勝てるかなぁ?」


勇次がタラちゃんの顔を伺いながら訊ねる。


「勝つ能力はあると思います。こういう時は勝って欲しいと思っちゃいますね」


「デルーカだし、大丈夫なんじゃないかな」


二人が納得し合っている中、私は基本的な質問をした。


「いつ?」


すると「あっ」というような表情でタラちゃんはスマホで検索し始め、


「26日です」


といった。ただし現地の26日で時差があるからどうのこうのという言葉が続いた。まだ先の事だけどちょっと興味がある。すると勇次が、


「そういえば今週は行く?弥生賞」


と話を振った。すかさずタラちゃんが、


「ああ、今週は行った方がいいですよ!」


と断言する。流石に私も知識が増えてきたので「何で」という野暮な事は聞かない。このレースは今年の皐月賞に出れる馬を決定するレースの一つなのだ。去年そのドゥーイットが勝つところを目撃したレースが皐月賞。今年もあの熱気が繰り返されるのだと思うと凄い事のように思われてくる。


「行きたいね、勇次」


「そうだな。中山は近いしなぁ」



私達は既にこのくらい気軽に競馬場に足を運ぶようになっている。決定したところでタラちゃんが思い出したように叫んだ。


「あ…そうだ、今週JRA女性騎手の藤騎手がデビューですよ!」


「あ、藤奈央騎手ね」


実は私も「藤奈央」騎手には同性として注目していた。競馬の番組でもちょくちょく取り上げられて今週JRAでデビューするという話で、地方の競馬場も含めるとなんと次の日の木曜日にデビューだそうで、世間的にも注目が高まっている。


「女の子にはハードなスポーツだよなぁ…俺でも怖いもん」


勇次が言う。


「勝てるかな?」


今度は私がタラちゃんに確かめていた。


「う~ん…今のところは未知数ですね…明日良い騎乗ができれば…」


次の日、藤奈央騎手はデビューを果たした。馬券圏内と言われている2着と3着が一回ずつで上々の滑り出しらしい。この日は競馬場が藤騎手目当てで大盛況だったらしくテレビのニュースでもレースの模様が流れた。


「中山…ちょっと大変かも知れませんよ…」


というタラちゃんのいやな予感は私も的中しそうだなと思った。

感覚的な豊富さ

書きたい事は漠然としているが何かを書きたいのは確かであるようだ。『感覚的な内容の豊富さ』
については述べることは出来ないけれど表現する事は出来るのだろう。例えば幻が記号的なもので
はなく、イメージである時点でそれは内容を持っている。その感覚を記憶しているから、その先が
あるようなものがもしあるのだとすれば。


ナンセンセンスに近いものとして、「何かが具体的に想像される場合にナンセンスに思えない事柄
がある」という状況をあげることができる。『仮定の話』があるなかで、普段はその仮定を考慮な
どしていないけれど、仮定が真としか思えないような状況になった場合に仮定の事として述べられ
た事が真実味をもつような。


特にそういうものはコミュニケーションの中で出てくる。例えば他者が体験した事が真実であるとし
ても他の人がそれを体験できない場合に、それでもその体験をしたことが何か現実の基盤を持ってい
ると信用して話を聞く場合に、それを信用しない人にとってはナンセンスなたわごとになるものが、
その人にとっては半信半疑な事として受け入れられているのだろう。またそれを真実とした場合に
のみ何か意味をもってくる事柄は、やはりナンセンセンスなニュアンスを帯びる。



「意味はないのかも知れないけれど、あるのかも知れない」



案外、そういう感覚で情報を受け取っている事もある。けれど、どんなに確かめようとしてもその
「仮定」が「仮定」のままでありつづけるような事については、やはりずっとナンセンセンスのま
までしかないのだろう。とはいえ、体験が具体的な、感覚的な内容としてイメージとして表現され
る時、受けとる側に浮かぶものもただの記号よりはもっと具体的になると思われる。



私の中のナンセンセンスな感覚も、おそらくはそういったものの集まりである。それが直接的な言葉
では伝えられないものであるという事は分っていて、何か独特の表現によって無内容ではないという
事を言うしかない。

伝えたい事への

何かを言うことが何かを意味するというのならば意味の中にあるという事でしょう。
意味のないたわごとをたわごととして聞かないならば、何か意味深なものに感じら
れます。けれどたわごととして聞けばまさに聞く意味もないのです。


あってないようなものとでも言いますか、意味があるという気持ちで聴かれてしまっ
てもいけないし、意味がないと割り切られても成り立たないというか。


感覚的な、それこそ音楽的なものだと思って受け取る場合にというのが近いのでしょ
うか。そもそもメッセージとしての『伝えたいこと』が意味のレベルで捉えられてい
るのではないと思います。文章は『伝えたいこと』を『伝える』という事で成立する
ならば、その肝心な『伝えたいこと』が自分でも分ってないと言いますか。



では「それ」は一体何なのでしょう。そういう「問い方」でも伝えられるものではな
く、少なくとも「これではないです」と言い続けることしかできないと思います。しか
しながらそういう無限に終わらない語りを続ける事自体が(話す方も聴く方も)『馬鹿
馬鹿しい』=『ナンセンスだ』という判断になってしまえば、それは続かないのです。


あくまで『伝わるのかも知れない』と主体が感じていてようやく話せる事で、と同時に
『何となく分る気がする』と感じてくれる相手がいる(だろうと主体が感じている)
状況においてのみ語れる事というのはあると信じます。


[ ]


少なくとも「それ」に(あくまで「それ」と呼べるものならばですが)迫ってゆく道程
を続けてゆく事は出来ます。いうなればそれは『カタチの無い道しるべ』があるような
道でしょうか。この表現はそれ自体がそれを示す(イメージさせる)ような言葉です。
直感を信じるならば、『カタチがない道しるべ』というものが『カタチのない道しるべ』
であるような…。



具体的な例がないのです。それは抽象的な言葉によってイメージされた方向性に進んで
ゆくようなもので、『カタチの無い道しるべ』の始まりが『カタチの無い道しるべ』と
いう抽象的な表現です。その言葉によってイメージされる抽象的だけれど何かの方向性
を示している道しるべとなる言葉が、「それ」への道程にあります。



もちろんこれは限りなくナンセンスな物言いに近く、定義を述べなければ機能しない語の
組み合わせに意味を後から与えてやるような試みで…


[ ]


とここまで来た所で、「その方法を是とするかどうか」を考えなくてはなりません。このよ
うな抽象的な言葉が先にありきの説明では直感すれば何となく分るのかも知れませんが、
それが出来るとも限りません。となれば「それ」へ進むための方法として、こういうやり方
は控える事にするという戦法を与えた方がいいでしょう。



ところで「それ」がなんであるかという事を考えた場合に、一つ理論的な事が浮かびます。
「それ」を意味の分節で説明する場合には「それ」というのははっきりと伝わり得ると思い
ますが、仮に『ナンセンセンス』という感覚的な言葉で説明するのであれば、「それ」自体
をナンセンセンスはどういう風に捉えるのでしょうか。



おそらく「それ」に辿り着かないのはナンセンセンスがそれをはっきりと把握していないか
らでしょう。普通ならメッセージがありきで何かを述べる。けれどナンセンセンスはメッセ
ージがあるとしてもそれを把握していないまま述べるので意識的には伝えることが出来ませ
ん。むしろ意図しない方法で、意外な方法で伝えていたという事があり得ます。



「その」はっきりしないメッセージを「何なのか」と問う事自体が意味の分脈です。結論を
急いでいる間には語られる事の無い何かがあります。



ナンセンセンス自体が「女性的」と言った事もありますが、こういうところも確かにそれらし
さがあるのかも知れません。伝えたい事があるけれどはっきりと意味のレベルでは捉えられて
いない、けれど語りというのは必ずしも結論だけのものではなく、過程そのものにも意味が
あると言えばそうなのかも知れません。

掌のワインディングロード ㉓

最近仕事場でこんな風に言われる事が多くなってきた。

「最近雰囲気変わってきましたよね」


自覚がなかったので「どんな風に」と訊ねると、


「なんか前はきりっとしてたけど、今は親しみやすくなったというか柔らかくなったというか」


という返事が返ってきた。俺としては前と変わらない気持ちで仕事をしているつもりだったのだが、どうも私生活での変化が影響しているのかも知れない。ある日俺は聡子に、


「なあ、俺って雰囲気変わったかな?」


と訊ねてみた。彼女も同じように「うん、なんか穏やかな顔をしてることが多くなったよ」と云う。確かに自分の表情は分からないから、そういうところは変わってきたのかも知れない。意外な事に、


「私も仕事場で最近変わったねって言われるよ」


と聡子も答えた。「どんな風に?」と言ってみたら、


「私の方はお客さんに、『なんかこの店で聡子ちゃんだけ雰囲気がちょっと違うよね』って。前は言われなかったんだけど」


という返事。聡子の仕事場での光景が想像されてなんとなくしっくりこないのだが、考えてみるとそう感じるのもこれが初めてだったかもしれない。二人で居る時間が長く、実家に里帰りした時以降妹ともやり取りをしている聡子は前よりも一層親密になったように感じるし、今とは少し違う形もの未来もちょっと具体的に想像してしまう事がある。



けれど俺は今の生活がかなりしっくり来ていた。妹にはタラちゃんを含めた3人の共同生活について奇妙なように思われているが、男同士だから出来る話もあるし、ややもすればささくれ立ってしまいそうになる世の中で自分の家は居心地がよく、多分それが表情にも出ていたのだろうと思う。そう考えてみると人間というのは環境が変われば確かに変わるものなのかも知れない。



仕事終わり、いち早く帰宅した俺は一人の部屋でぼんやりしていた。普段なら聡子の方が先に返ってくる事が多いが今日は俺の方が早く上がったようで、タラちゃんはもちろん一番遅い。一人で過ごしていると何か落ち着かない、というか手持無沙汰である。タラちゃんが居る時は軽い冗談を言ったり、競馬の話を振ってみたりするが一人だとどうも何をしたらいいのか決められなくなるようだ。特に意識しないままスマホでニュースを見ていると競馬のニュースの見出しが飛び込んでくる。


『二冠馬、ドバイへ。中山記念から始動』



「ドバイ」というのもあまり見慣れない文字だっだのでしっかり読んでみると去年皐月賞とダービーを勝ったドゥーイットという馬が故障明けで3月の中山記念から同月のドバイシーマクラシックというレースに向かうというニュースだった。ドバイというと「中東の国」というイメージしかないがそういえば前にタラちゃんが、


「ドバイは競馬も凄いんですよ」


と言っていた記憶がある。ちょっと検索してみたところ「ドバイ・デイ」という日にはいくつものGⅠレースが開催され各国から馬が招待されるという事である。世界規模の話で読んだだけでは想像ができないけれど、とにかく凄いというのは分かった。ドゥーイットの鞍上はラウロ・デルーカのままだそうで、彼はドゥーイットが最強だと信じているらしい。ダービー後に骨折して休養していたというのは知っていて馬も骨折するんだなとぼんやり考えていたが、馬の場合足の骨折というのは重症化しやすいらしく、現役でいられるということは結構幸運な事なのだと知った。


そういう話を知るとなんだか応援したい気持ちが増してくる。基本的にミーハーではないが強い馬は好きで、ドゥーイットのレースも素人ながらに痺れるものがあったし、何より聡子と初めて中山で見たGⅠで勝った馬。思い入れがでてくるのも自然なのかなと思った。


「この話、タラちゃんにしたら盛り上がるかな…」


やっぱりこういう話は3人で盛り上がりたい。特に3月のドバイのレースは何かわくわくしてくる。


「あ、3月になるのか…」


『2016』という数字にはまだ慣れないが、しばらくすれば3月でもう一年の4分の1である。そういえば聡子の言っていたY県への旅行も春になったらと漠然と考えていたが、4月の少し前辺りももしかしたら丁度良い頃なのかも知れない。寝る前に少しY県の観光地について調べてみようと思い、パソコンを立ち上げて検索し始める。

何をしたら

何をしたらいいかーというのは本来問いにはならない。というのも何をするかは自由だからだ。だが「目的の為に」という枕詞をつけるならば話は変わる。


目的の為に何をすればいいかーは確かに行動の選択肢を与える。完全に何でもいいというわけではなく、ある範囲の自由がある。何かを踏み越えてしまえば目的が達せられない場合があるのなら、「それではない別の何かをすればいい」という部分的な答えが与えられる。


何をしたらー幸せになれるか?

仮の

強度の体験の主体にとってのリアルの強度となるものは創作もありうる。現実もリアルだが、現実もそのリアルと同等の強度でリアルと見なしていて、創作の世界の体験と同等のものとして体験している。


仮のとはいえそこそこにリアリティを持ったある強さの本気の行動が何かとして表出する。強度の体験での「試行」は現実の主体にとっては「シミュレーション」だが、ある程度の強度のシミュレーションで「試行」したことになるような基準である。その強度の体験の主体の「肯定」も現実のこととしての肯定ではなく強度の体験の世界を現実の存在が軽く<あるかもね>と肯定するような意味での「肯定」である。


追記:


強度の体験の主体と存在の全体からなる「世界」というものも考えられる。内的世界はそういうものといえる。

掌のワインディングロード ㉒

フェブラリーSの週。数少ない中央ダートのGⅠレースであるという事と、有馬記念から大分間が開いたという事もあり特別感が増しているように感じた。大井さん細井さんともに府中ダートのGⅠを見るのは初めてだからか予想にも気合が入っていたように感じる。


府中に来たその日、既にテンションが上がって忙しなく歩き回っている他の大勢のお客さんを見て、<この頃は随分お客さんが増えたような>と思いながら過ごし易そうな場所を探していた。その時、大井さんが何気なく言う。

「もうこの雰囲気は慣れちゃったなぁ」


少し苦笑する大井さんは常連になるとは思ってなかったのだろう。細井さんも同じような表情を浮かべている。その時、僕はこの3人でこうして競馬場に来て楽しめている事がもう当たり前なのに何だかとても素晴らしい事のように感じた。そして僕の頭に咄嗟に、


<こういう日々は多分長くは続かないんだろうな>


という考えが急に浮かんできて自分で吃驚していた。けれどよくよく考えてみるとその週にあった事で僕は既に何かを感じ始めていたのかも知れない。




月曜日のこと。バイトで店長から「加賀見君」と部屋に呼ばれた。店長はそこでゆっくりこう言った。


「加賀見君、社員になる気ある?まあ今すぐにってわけじゃなくって、もし社員になりたいのなら今うち人手不足だから求人ちょっと出てたりするからどうかなって」


ほとんど想定していなかった事だったので僕は呆気にとられて、


「え、希望すればなれるものなんですか?」


と訊いてしまった。すると店長は苦笑いして、


「いや、そういう事ではないんだけど普通に求人で応募すればちょっとは優遇してくれるかもってとこかな」


と言う。


「ああ、そうですか」


その時はそう返事して曖昧に頷いて「検討してみます」と答えて残りの仕事に集中したのだが、次の日目覚めて冷静に考えてみて、


<もしかしたらそれは凄く良い事なのかも知れないし、凄く責任が重いのかも知れない>


と思いはじめた。今の状況は責任もなく給料もそれほどでもないけれど、仮に一般の枠で「就職」というかたちになればまた生活もガラっと変わってくるだろうなという事が予想された。


<でも…>


一方で、今はあくまで成り行きで仕事を続けているという感じで「就職」という事を意識するなら可能ならば「普通」の仕事に就きたいという気持ちは当然ある。かなりハードルが高いという事もうんざりするほど聞かされているが、自分の個人の経験としてまだ確かめては居なかった。そういう迷いが出てくると、何かをはっきりさせるために一度本気で「就活」というものをやってみるのも良いのかも知れないと思いはじめる。同年代と同じような就活にはなりえないけれど。火曜日はそのまま職安に行く事にした。



職安には時々通ってはいたが、本気で転職を考えて探していなかったのもあって求人票も今までよりしっかりと見るようになった。例えば自分は体力がある方だし、立ち仕事は慣れているから工場というのも選択肢だろうなと思って絞って検索してみたり。或いは今と同じような飲食業の社員での待遇を眺めてみたり。



けれど就活する場合に僕は甘えかも知れないが、土、日の休みはどうしても欲しいと感じてしまっていた。ただその条件で探し始めると一気に求人が減る。週休2日も隔週だったりするので毎週に限定すればそれほど選べる求人ではなくなる。けれどどうせ絞り切れないのだから、そういう条件の中で見つけてみるのもいいのかなと思った。そういう風に捉えると、意外と出来そうな仕事があるという事に気付く。



結局週末までに時間を見つけて2回ほど職安に通い応募してみたい所が数件見つかった。試しに応募してみようとしたら相談員から経歴を尋ねられ、まだ就活は慣れていないし面接の対策などの講習を受けてみてはどうですかと勧められた。確かにそちらを先にする方が賢明だなと思い丁度次の週に講習があるというこだったから登録した。そういう事をしてみた時自分の中で何か意識が切り替わってゆくような実感があった。



おそらくそういう事があったからだろう、僕は今の状況が変わったという想像を知らぬ間にしていたようである。そして多分、それは大井さんや細井さんにも同じことなのだろう。3人で競馬場に来れないようになるのだとしたらそれはかなり寂しい事のように思われる。自分にとっての生き甲斐であるから尚更そうで、職探しをするという方向に動き出した一方で、どこか現状維持を望む自分もいるということに気付き始めている。



一方でその日のレースはかなり興奮して見ていた。というのも僕には珍しく馬券が好調だったからである。大きな額は賭けられないけれど、メインのフェブラリーSでは事前に怖い存在で切るか買うかで迷っていたラウロ・デルーカに頼る事にした結果、彼は見事に一着に導いてくれた。


「すげえなタラちゃん!ってかデルーカがすげぇ」


細井さんも地味に複勝で抑えていたのでにんまり顔である。大井さんは、


「なんかメルー騎手って2着多くない?」


とユメノチルドレンという馬に乗っていたもう一人の外国人JRAジョッキーのクリスチャン・メルーという騎手を詰っていた。確かにその馬は前走でもGⅠ2着で、メルー騎手はこのところ勝ち切れないレースが多くなっているように思われた。ところで大井さんは名前が可愛いからという理由でユメノチルドレンの単勝を買っていたのだった。

意味がないことの

結局のところ「孤独」とならざるを得ないような面を持っている。その誰にでもある「孤独」な面に
向けて言葉を向けるというのも同じ「孤独」に向き合っているようなもので、そこに届かなければ
言葉が幾らあっても虚しいものだ。


というか、そのままのテンションで居続けるのがそもそも難しい。強いて孤独にならなければ実感
できないような孤独にはリアリティーがない。



自分をその孤独に追い込んで、そしてようやくその孤独が分ってそこに届く言葉が語れるとして、
その孤独に居れる時間は実のところそこまでである。届いてしまえばもう孤独ではないという。


というか意味がない。


そうこれは意味がない事の確認である。
プロフィール

なんとかさん

Author:なんとかさん
ナンセンスな物語を書くつもりです。リンクフリーです。

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