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掌のワインディングロード㉛

「研修か…」

何となしに開いたWEBのページに書いてある情報を見て思わず呟く。競馬にある程度馴染んだ者にとっては当たり前になっている「厩務員」や「牧場関係者」という言葉。でもその具体的な姿を僕は知っているようで知らなかったという事に気付いた。


旅行から戻ってきて数日経って、自分の中で何かの準備が整い始めている事を感じた。なにかの踏ん切りがついたかのように熱心に競馬に携われる仕事の情報を探している。CMでも時々流れていたように若い人が牧場で働くということを奨励する仕組みがあるらしく、ネット上には非常にシンプルな記述で牧場で働くための過程が示されている。一年ほどの全寮制の研修を終えると牧場に就職できるという流れは魅力だが、募集人員が決まっている。それでも試してみる価値はあるように思えた。


もしこの試験にパスする事が出来たら…。甘い考えかも知れないけれど情熱ならもしかしたら十分にあるのかも知れない。その未来を想像してみて、一つ気付いたことがあった。


<そうか…全寮制って事はもうこの生活は…>


そう、仮に決まったとしたら三人で暮らしているこのアパートからは出ていかなければならない。そしてもし本気で試験の準備をするとしたら、実家の両親にも知らせておく必要がある。金銭的なものはどうなのだろう…。調べてみると経費はなんとか貯めていた貯金で賄えるという事が分った。


『決断するなら今だ!』


普段は眠りっぱなしの自分の中の熱い気持ちが訴えかけている。挑戦してみるのも悪くはないだろうと思う。いや、むしろ一度の挑戦で諦めてしまうような気持ちでは受かるわけがないという気もしてくる。ぼんやりとカレンダーを見つめ、試験日までの日数を計算する。


「どうしたの?タラちゃん」


そんな僕の様子に気付いたのか聡子さんが話しかけてくれる。僕は、


「その…前勇次さんに言われて、競馬に関係する仕事を探してみているんですけど、結構良さそうなのがあるんです」


「え、そうなの!どれ?」


聡子さんの声が弾んでいる。僕がパソコンで開いているページを指さすと興味深そうに読んでゆく。そして一言。


「いいじゃん!これタラちゃんにぴったりだよ!」


その言葉は熟慮の末なのか直感なのかで言えば後者だと思うけれど、そう言われると何となく自分でもできそうな気持になってくる。


「ただ募集の定員があって、試験に通らないとダメなんですよね…全寮制だし…」


「あ、そうだね。全寮制なんだ…」


そこで聡子さんも少し黙ってしまう。僕等の関係性から言って、それぞれが選ぶ道については多分妨げることは出来ないけれど、少なくとも今の状況が好ましいものであるが故にアドバイスするにも躊躇ってしまうのだろうか。そんな風に想像していると聡子さんはその後はっきりした口調でこう言った。


「タラちゃん。後悔するのはやってみてからで良いと思うよ」


その言葉はとても重みがあるように感じた。既に一緒に暮らして聡子さんの人となりを見ている僕だから分って、そして僕ならその意図が分かるはずだと知っている、そんな強いメッセージに僕の心が震える。それでいてその時の聡子さんの表情はそれまでに僕が何処にも見た事の無いような温かいものだった。


「聡子さん…」



その日からしばらく仕事の間もこの研修の事だけを考え続けていたような気がする。居酒屋は繁忙期だったけれど、丁度良い具合に新しい人が数名入って比較的ゆとりのあるシフトが組まれていて、もちろん売り上げも良く店長も上機嫌。気付けば様々な学校の入学式とか、社会人の入社式の季節になっていて、競馬もGⅠのシーズンに突入し始める時期である。仕事の合間に僕は店長に、


「もし僕が辞めるって言ったら、どうですかね?」


と少し試すように訊いてみた。店長は一瞬驚いた表情をしたけれど何かを納得するように「うん」と頷いて、


「それは君の自由だよ。まあウチとしても今少し忙しい時期が過ぎたら多分大学生とか新しく入ってくれる時期だろうし、むしろ早めに教えてほしいけどね」


と笑いかけてくれた。もしかすると店長は僕がこう言うことを予感していたのかも知れない。


「もちろん店に迷惑は掛けたくないですし、その…ちょっとどうなるか分らない部分もあるんですけど…」


そんな感じで曖昧に言うと、


「まあ、大丈夫。なるようになるから」


と快活に答えた店長。なんだか色んな事が僕を後押ししてくれているように感じる。



朝方家に歩いて帰っていると、いつも見ていた当たり前の景色がその時だけはちょっと違って感じられた。少し眠かったので今ははっきりと覚えていないのだけれど、何か世界の違う一面を見せてくれているような光があったような気がする。




そして家に戻って一度眠って目覚めた時、僕はあることを決心していた。少し緊張しながらスマホのある項目をタップして電話を掛ける。数回コールを鳴らしたところでそこに繋がる。


「はい。竜二?」


久しぶりに聞く聞きなれた声。それは僕の母親の声だった。更に言えば『加賀見竜二』という僕の下の名を呼ぶ人は久しぶりかも知れない。


「うん。お母さん、久しぶり」


「本当に久しぶりだわね…本当、今まで大丈夫だったの?」


「あ、何とかやってた。なんか今ルームシェアとかしてるんだ」


「前お父さんにはメールしてたね。お母さんもあんたが学校辞めた時は「もう知らない」って言っちゃったけど、まあそういう事もあるかもねって最近はあんたの気持ちがちょっと分かるの」


「うん。ゴメン。今まで心配かけて」


「今も夜勤のバイト続けてるの?」


「うん。昨日も仕事してきて、今起きたところ」


「そう。まあ無理しないで」


「分った。で、あのさ…。実は話したい事があるんだ」


「それって多分大事な事なんでしょ。電話掛けてくるんだから大事よね。じゃあ一度こっちに帰ってきて話しましょう」


母にそう言われるだろうという事は分っていたし、そうするつもりだった。


「そのつもりだった。なるべく早く話しておきたいから明日辺りそっち帰るけど、大丈夫かな?」


「え、そうなの。まあ大丈夫よ」


「じゃあ、明日」


「わかった」


そこで電話を切り、深呼吸をするように少し息を吐く。そして僕は勇次さんと聡子さんにも「その事」を伝える為に居間に向かった。
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