掌のワインディングロード 33
出会いと別れは切り離せないものなのかも知れない。桜が散り始めたのを合図にするかのように、その日タラちゃんからこんな風に切り出された。
「今月末に、実家に戻ろうかと思います」
先日実家に戻った時に少し予感はしていたけれど、もともと学生と社会人との間に位置するようなタラちゃんは本来ならば親御さんとの関係を無視する事は出来なかったはず。リビングで一緒に過ごしていた勇次もその言葉をじっと受け止めている様子でタラちゃんの話に耳を澄ませていた。
「実家に戻った時に将来牧場で働く仕事をしたいという話をして、その為に研修を受けようとしている事を告げたら結構意外でしたが了承してくれたんです。ただ、」
「ただ?」
「父から条件を付けられて、とりあえず研修までの間に一度実家に戻って来いと…」
「まあ、そういう話だったら分かるな」
勇次は大きく頷いて納得していた。普通に考えれば私もその方が自然だと思う。でも、これまでだってタラちゃんはちゃんと生活してきたし、ルームシェアという形だけれど金銭的な問題は助けを借りずにやってきたという事を考えれば、必ずしも他の方法が無いというわけではないと思うのだ。私のそんな気持ちが表情に出ていたのか、タラちゃんと一瞬目が合うとちょっと申し訳なさそうな表情になって、
「それが自然ですもんね。今までの生活がちょっと特殊だったといえばそうですし…」
と一言。『特殊』という響きが何となく不安なものに思えて私はこの時何となく切なくなってしまった。
「やっぱり特殊なのかな…」
「あ、『特別』って言った方が良いかもしれませんね。今まで本当にお二人には助けられっぱなしで、僕にとっては特別な時間だったと思っています」
暗くなりがちな雰囲気で敢えて明るく照れ臭そうに振る舞うタラちゃん。その様子を見ていた勇次が、
「何だかもうすっかり決めちゃってるみたいだな。うん、その方が安心と言えば安心だな」
と言った。確かに未練を残しているようにしていてはこれからの方向で足を引っ張ってしまうのかも知れないなと私はその時思い直した。
<そうだ、これも新しい門出だと思って祝ってあげないと>
私の中で何かがすっかり切り替わってしまって、むしろ残されたあと数週間を有意義に過ごそうと、思い出を残そうと決めた。
「じゃあ、それまでの間に三人でやり残した事を全部やっちゃうことにしない?」
若干ハイな気分でそう提案する私。ちょっと呆気に取られた後に苦笑し始める二人。
「はい。やり残した事は、そうですね。やっぱり来週の皐月賞を見に行く事とかを筆頭に、例えばみんなで飲みに行ったりとかそういう感じの事が僕としては心残りがありますね。是非とも実現したいです」
珍しく力強く希望を言うタラちゃん。珍しいというか、もしかしたらこの頃になってタラちゃんに訪れている一つの変化だろうか。自分から進んで何かをしようという気持に溢れている。それを聞いて勇次は、
「ああ、そしたら人数が多い方が良いかもな。折角だから俺の妹とか呼んでみようか?」
とアイディアを出す。
「妹さんですか。そういえば僕と同い年でしたね。」
「ああ、それいいね。私も桜ちゃんと飲んでみたかったんだ」
結局その日はそんな風に希望を出しあってすっかり過ぎていってしまった。善は急げという事で勇次は早速桜ちゃんに連絡したらしい。そして私達らしいなと思ったのは翌日の日曜日にはすっかり競馬の話が中心になっていた事だった。ますます競馬の魅力に憑りつかれ始めている私が最近注目している唯一の女性ジョッキー藤奈央騎手の活躍だ。
「勇次!!凄い、藤騎手初勝利だよ!!」
スマホであるレースの結果を確認して気が付くといきなりそう叫んでいた私。流石の勇次も驚いた様子だった…もしかして私の声に?
「おお!!ついにか!!あれ?でも前勝ってなかったっけ?」
「それは地方。今回は福島でJRA初勝利を挙げたの。勝った馬の名前も素敵ね」
喜んでいると台所からタラちゃんがひょいと顔を出して、
「え、勝ったんですか!?」
と確認する。なぜタラちゃんが台所に立っているかというと、実は「やり残した事リスト」の中に「タラちゃんの本気の手料理を振る舞
う」という項目があって昼食に料理をしてくれているのだ。
「やっぱり。僕はすぐに勝てると思ってました。だって何度も連対とかしてましたし、あの騎乗数では優秀でしたし」
一人納得しているタラちゃん。勿論その位なら私だって既に調べていて、実の事をいえば私はそのレースで勝つ確率が高いと踏んでいた。最近の私は競馬は『データ』を読み解く事の重要性に気付き始めていた。同じく女性で競馬ファンのタレントの話を聞いていても、『データ』から攻めるという方法を結構普通に行っているし、ある人の紹介している『データ』によればそのレースは前に行った馬で決まってしまうという『前残り』になり易い傾向があるコースで、勝ち馬は前走に好走しているし、斤量も軽くて有利だと断言できた。
…本当ならこういう話をしてもいいのだけれど、そこは女性としての遠慮というか勇次に引かれないようにしている部分がある。というか私はもともと色んな事を研究するのが好きだし、拘りはじめると突き詰めてしまうタイプ。ある意味こうなるのは必然だったのかも知れない。なんて一人吹き出してしまいそうになると勇次がぼそっと、
「なんか藤騎手のサイン欲しいなぁ…」
と言っていた。ちょっと聞き逃すわけにはいかない心理もあったけれど、気持ちも分かるので聞き流した。同性から見ても若々しくて可愛らしい藤騎手は既にアイドル顔負けの人気になっていて、もちろんそういう魅力とレースでの騎乗は別の話だけれど確かに色んな人を惹きつけている。そもそも日本で一番有名な瀧騎手だって昔は熱狂的な女性ファンが多かったというし。そうこうしているうちに、
「出来ました!」
とタラちゃんの料理が食卓に並び始める。意外にも得意料理はパスタと肉料理だったみたいで普段とは違って何だか洋風になっている。もちろん美味だった。ところで、その日は桜花賞の日でもあった。レースの直前映し出された阪神競馬場には桜が咲き誇っていて、何か儚く美しい雰囲気が漂っている。『乙女たちの競演』という実況の言った言葉が何だか不思議な響きを持っていた。そのレースに勝ったのは『ジュエリー』。
レース後すぐにネットでは『ラウロ・デルーカの見事なエスコート』という表現が書き込まれ、なんだか文学的だなと思った。そういえばたどたどしさが残るデルーカ騎手のインタビューでも「彼女」と馬を擬人化して語る表現があったりで、考えてみれば擬人法というのは基本的な手法なのだ。
「ああ、そうか…小説もあるよね」
私は競馬が題材の小説を今度じっくり読んでみようと思った。
「今月末に、実家に戻ろうかと思います」
先日実家に戻った時に少し予感はしていたけれど、もともと学生と社会人との間に位置するようなタラちゃんは本来ならば親御さんとの関係を無視する事は出来なかったはず。リビングで一緒に過ごしていた勇次もその言葉をじっと受け止めている様子でタラちゃんの話に耳を澄ませていた。
「実家に戻った時に将来牧場で働く仕事をしたいという話をして、その為に研修を受けようとしている事を告げたら結構意外でしたが了承してくれたんです。ただ、」
「ただ?」
「父から条件を付けられて、とりあえず研修までの間に一度実家に戻って来いと…」
「まあ、そういう話だったら分かるな」
勇次は大きく頷いて納得していた。普通に考えれば私もその方が自然だと思う。でも、これまでだってタラちゃんはちゃんと生活してきたし、ルームシェアという形だけれど金銭的な問題は助けを借りずにやってきたという事を考えれば、必ずしも他の方法が無いというわけではないと思うのだ。私のそんな気持ちが表情に出ていたのか、タラちゃんと一瞬目が合うとちょっと申し訳なさそうな表情になって、
「それが自然ですもんね。今までの生活がちょっと特殊だったといえばそうですし…」
と一言。『特殊』という響きが何となく不安なものに思えて私はこの時何となく切なくなってしまった。
「やっぱり特殊なのかな…」
「あ、『特別』って言った方が良いかもしれませんね。今まで本当にお二人には助けられっぱなしで、僕にとっては特別な時間だったと思っています」
暗くなりがちな雰囲気で敢えて明るく照れ臭そうに振る舞うタラちゃん。その様子を見ていた勇次が、
「何だかもうすっかり決めちゃってるみたいだな。うん、その方が安心と言えば安心だな」
と言った。確かに未練を残しているようにしていてはこれからの方向で足を引っ張ってしまうのかも知れないなと私はその時思い直した。
<そうだ、これも新しい門出だと思って祝ってあげないと>
私の中で何かがすっかり切り替わってしまって、むしろ残されたあと数週間を有意義に過ごそうと、思い出を残そうと決めた。
「じゃあ、それまでの間に三人でやり残した事を全部やっちゃうことにしない?」
若干ハイな気分でそう提案する私。ちょっと呆気に取られた後に苦笑し始める二人。
「はい。やり残した事は、そうですね。やっぱり来週の皐月賞を見に行く事とかを筆頭に、例えばみんなで飲みに行ったりとかそういう感じの事が僕としては心残りがありますね。是非とも実現したいです」
珍しく力強く希望を言うタラちゃん。珍しいというか、もしかしたらこの頃になってタラちゃんに訪れている一つの変化だろうか。自分から進んで何かをしようという気持に溢れている。それを聞いて勇次は、
「ああ、そしたら人数が多い方が良いかもな。折角だから俺の妹とか呼んでみようか?」
とアイディアを出す。
「妹さんですか。そういえば僕と同い年でしたね。」
「ああ、それいいね。私も桜ちゃんと飲んでみたかったんだ」
結局その日はそんな風に希望を出しあってすっかり過ぎていってしまった。善は急げという事で勇次は早速桜ちゃんに連絡したらしい。そして私達らしいなと思ったのは翌日の日曜日にはすっかり競馬の話が中心になっていた事だった。ますます競馬の魅力に憑りつかれ始めている私が最近注目している唯一の女性ジョッキー藤奈央騎手の活躍だ。
「勇次!!凄い、藤騎手初勝利だよ!!」
スマホであるレースの結果を確認して気が付くといきなりそう叫んでいた私。流石の勇次も驚いた様子だった…もしかして私の声に?
「おお!!ついにか!!あれ?でも前勝ってなかったっけ?」
「それは地方。今回は福島でJRA初勝利を挙げたの。勝った馬の名前も素敵ね」
喜んでいると台所からタラちゃんがひょいと顔を出して、
「え、勝ったんですか!?」
と確認する。なぜタラちゃんが台所に立っているかというと、実は「やり残した事リスト」の中に「タラちゃんの本気の手料理を振る舞
う」という項目があって昼食に料理をしてくれているのだ。
「やっぱり。僕はすぐに勝てると思ってました。だって何度も連対とかしてましたし、あの騎乗数では優秀でしたし」
一人納得しているタラちゃん。勿論その位なら私だって既に調べていて、実の事をいえば私はそのレースで勝つ確率が高いと踏んでいた。最近の私は競馬は『データ』を読み解く事の重要性に気付き始めていた。同じく女性で競馬ファンのタレントの話を聞いていても、『データ』から攻めるという方法を結構普通に行っているし、ある人の紹介している『データ』によればそのレースは前に行った馬で決まってしまうという『前残り』になり易い傾向があるコースで、勝ち馬は前走に好走しているし、斤量も軽くて有利だと断言できた。
…本当ならこういう話をしてもいいのだけれど、そこは女性としての遠慮というか勇次に引かれないようにしている部分がある。というか私はもともと色んな事を研究するのが好きだし、拘りはじめると突き詰めてしまうタイプ。ある意味こうなるのは必然だったのかも知れない。なんて一人吹き出してしまいそうになると勇次がぼそっと、
「なんか藤騎手のサイン欲しいなぁ…」
と言っていた。ちょっと聞き逃すわけにはいかない心理もあったけれど、気持ちも分かるので聞き流した。同性から見ても若々しくて可愛らしい藤騎手は既にアイドル顔負けの人気になっていて、もちろんそういう魅力とレースでの騎乗は別の話だけれど確かに色んな人を惹きつけている。そもそも日本で一番有名な瀧騎手だって昔は熱狂的な女性ファンが多かったというし。そうこうしているうちに、
「出来ました!」
とタラちゃんの料理が食卓に並び始める。意外にも得意料理はパスタと肉料理だったみたいで普段とは違って何だか洋風になっている。もちろん美味だった。ところで、その日は桜花賞の日でもあった。レースの直前映し出された阪神競馬場には桜が咲き誇っていて、何か儚く美しい雰囲気が漂っている。『乙女たちの競演』という実況の言った言葉が何だか不思議な響きを持っていた。そのレースに勝ったのは『ジュエリー』。
レース後すぐにネットでは『ラウロ・デルーカの見事なエスコート』という表現が書き込まれ、なんだか文学的だなと思った。そういえばたどたどしさが残るデルーカ騎手のインタビューでも「彼女」と馬を擬人化して語る表現があったりで、考えてみれば擬人法というのは基本的な手法なのだ。
「ああ、そうか…小説もあるよね」
私は競馬が題材の小説を今度じっくり読んでみようと思った。
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