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要素はよそう

相当昔に流行ったゲームを何の躊躇もなくプレイ出来るほど
僕はその時に固着してはいない。時というのは残酷なまでに
残骸を遺してゆく。その時だから意味のあった事、物、今は
それらが何の為にあるのかすら判らなくなっている。


僕はそれらから確かに文法を語法を学んだ。けれど、肝心の
要素については、どれも使いまわしが利かない。具体的に
何かを語りたいのに、その要素からは全くもって話題が
出来あがらない。誰が、十何年も前のゲームのある要素
について熱心に語ろうとするだろうか?

「その要素を具体例として出す理由は何?」

もっと手軽に、「で?」と言われてお終いだ。

「このゲームに出てくる「これ」が、特別なんだよ。」

そういう事を言ったとしたらきっと、可哀想な人を見る目で

「思い入れが強いんですね…」

と言われてお終いだ。そのくらい他の事も熱心にやれば
いいんじゃないですか、と余計なひと言もついてくるかも
知れない。そのゲームをやり込んだ者にとっては意味の
ある要素。きっと一つの臨界を意味するその要素が
共有される事はきっと無い。だって、それは僕がその
時の条件下で行った場合の「ベスト」でしかなかったからだ。


そんな個人的で限定的な要素など、誰も相手にしない。
語るならせめて、個人的か限定的かのどちらかを外した
ものを語るべきである。生憎、時代は個人的で、しかも
それが流行った時間からして限定的にならざるを得なかった。


そのゲームは確かに時間さえあれば、或いは何かの機械でも
使ってゲームの進行速度を上げて効率よくプレイできるなら、
かなりの事を試せる筈である。それなら、そのゲームにほぼ
限界として与えられている理想的な要素について語れるかも知れない。
或いは現在のように、オンラインで要素が情報として
共有されるようになれば、その要素については最早個人的
ではないし、その要素の出てきた背景まで考慮すれば
比較対象が現れるから語ることが出来る。



しかしながら、当時は時代が違っていた。ゲームは
己の所有するゲーム機の中で完結していて、精々パスワード
という名の、他のゲーム機への、つまりは他者への
共有システムがあったくらいである。それを共有
した者同士が、しかもお互いの状況をある程度了解
している関係でないと、ゲームそのものについては
ともかく、ゲームの個人的な要素について話す事など
出来なかった。だが、逆にゲームで話す事と言えば専ら
そういう事に限られていたから、互いに相手の
条件にも配慮するところから始まっていた。今考えると
ゲーム内の個人的なある要素について事あるごとに
話題にする事が出来たというのは、凄いことだったのかも
知れない。今でも、その個人的な要素の名を
まだ覚えているのは、単なるデータではなく、存在
するものとして見ていたという事だろう。


確かにその要素は、そのゲームの中に存在していた。



僕は今も尚そのゲームに固着しているのではない。
そうではなく、そのゲームの中にのみ「存在」する
「存在」と僕自身を比較してしまいそうになるのだ。


僕はゲーム内の存在ですらないにせよ、僕は
確かに条件的であるし、僕という存在が一部でも
情報として共有されない限り、僕は基本的に
僕の中で閉じている。オンライン属性がない
旧式のゲーム機によって再現された僕は
せいぜい、僕を生み出す環境内での最善を
目指すしかない。僕が何かが出来る
という技能は何かを習得するという事であり、
それを元に何かを行ったという実績が、
僕を次の目標へと駆り立てる。幸いな事に
能力値や目標はデジタルというよりはアナログ
だから、同じように見えて違っていて、
僅かな差異を楽しむことが出来る。


見かけ上、何も変わらないが、僕という
条件の最善など幾らでも目指せる。だが
僕という要素を知る者は、この身体だけである。


文法、語法は良く知っている。けれど、肝心の
要素があまりに限定的で個人的過ぎる。


そう。僕は、そのゲームの中の要素と同じである。


だから僕は、その要素について話したくなる。
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物語とはそこ限定

 その時代だから意味のあったゲーム、物語?
 いあいあ、物語とは常にその中だけの物なのです。その中に有る設定を前提に進み、その中だけに有る事象、悲劇、喜劇、感動、怒り、その他もろもろを楽しむものです。そこに入れない人には面白くもなんとも無いでしょうが、入り込めばそれが常識となります。つまり、時代と言う奴も物語の背景として考えれば常に今現在であり、賞味期限が切れる事は無いのであります。それが面白いと共有出来るものであるならば何時までも色あせる事無く伝えられていくものでしょう。
 さて、自分の中に持っているものを共有するとはこれまた難題であります。私が赤と認識しているものを果たして他人はそう認識しているだろうか。実は緑に見えているかもしれない。だが、その人は緑をして赤と呼んでいるのかも知れない。実は人間は皆赤が好きなのだが、それぞれに赤と認識している色が違っているかもしれない。或る人は青く感じる色をして赤と呼び、或る人は黄に感じる色をして赤と読んでいるのかもしれない。皆同じ色を好きなのに、現実世界に置き換えるとそれぞれに違う色を指してしまうのかもしれない。つまり、それ程に感覚とは曖昧なものだ。その感覚を共有してくれる相手を探して、人は孤独な旅を続けているのでありましょうか。

Re: 物語とはそこ限定

こんにちは。

『要素』は確かに存在しています。ゲームを起動させればその能力が再現されるデータとして。しかしながらそのゲームをプレイする者がいないようなゲームの、そしてその要素を作りだすための手間、注いだ情熱を共有できる人がいないという事がなんとなく寂しいと感じます。

まあ、別のところに書いていますがダービースタリオンという育成シミュレーションゲームの生産馬について、それを特定しないまま書いてみたんですけどね。


逆にいえば、何かしら意味深な事を言っているような文章になって、想像に委ねられる部分が多くなって面白いですね。
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Author:なんとかさん
ナンセンスな物語を書くつもりです。リンクフリーです。

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