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虚しさの奏でる音

言葉が虚しくなる。それは僕のものじゃない。
言葉が過剰に意味する。それも僕のものじゃない。


言葉の世界に入り込まない。


けれど、僕でさえ、僕という言葉を発しない限りは
何処にも居ないようであり。


じゃあ、それは何なのだろう?


「発する」という行為になる前の、この語を帯びない
、言葉で説明されない、語と語の関係は。ただ、関係
を知っている。その知が、「僕」という主語を通して
その関係を語るのだ。だから僕は、一つの知でしかない。


しかし、知は、顕在化されると次の知を析出させる。だから
傍目には、僕が何かを語って、次に何かを語るという風に
見える。


だけど、僕はもう語ることがない。


「語ることがない」と判断するのは、僕の状況を一旦
反省した、別の機能だ。その機能があるから僕に、知
に、「語ることがない」という当面の「知」が加えられ
、僕はもう語ることがないと語れる。逆説的に
その当面の「知」を前提として、新たに析出する
ものを僕は語る事が出来る。



出来るけれど。


僕は既に、「僕」と言う事に抵抗を感じている。その態度は
、知としての僕とは違っていて、反省によって最早個人的な知
でしかないものを説明する為に「僕」と言う事がナンセンス
だと判断した後に、その当面の知が僕に加えられ、ナンセンスと
知りつつそれを行う事が出来ないという、「僕」の情的な
面を表現している。


でも、それを別の方向から眺めるなら、知が「僕」と言うことは
ナンセンスではなく単に不合理であり、知が不合理な事が行えない
という事態を「僕」によって表現すると、「僕が抵抗を感じている」
という情的な面として見えてしまうというだけなのではないだろうか?



「僕」は、「僕」の知る関係の中で、その中から推論を発する。
であるが故に、「僕」という人格が保証される。つまり、「僕」
の情的なものも、「僕」の個性も、「僕」の知る関係の中から、
いや「僕」と言う「知」から導き出せるものであり、「僕」の
振る舞いは一般性を保ち、「僕」という存在が了解される。



こう見られた僕、いや「僕」には、もう特性などありはしない。
僕に独創性があるとすれば、僕が次に何を「知るのか」であり、
そればっかりは、順序が定まっているわけではないから、僕
として振る舞う事が必要になる。僕として振る舞うと言っても
僕は一々、「僕は○○だ」と自分に言うわけでもないから、
僕は僕自身から遊離する。「僕」と言わなくなる瞬間に、
それでも僕はあるのだろうか?



僕は、一つの条件でしかない。


だから、ある言葉は僕のものじゃない。その言葉を僕の
ものにしてしまうなら、僕は僕の条件を超えるものの
中にいて僕を語る事になる。これは僕じゃない。けれど、
僕が僕の条件から、導き出せるものを選んだとしても
より多く意味するものとしてそれを感じなければ、つまり
過剰に捉えなければ、言葉には内容が無く、虚しい。



僕を超えずに、それでいて僕を超える。



僕は不在の中から立ち現れてくる。「僕」と言わないけれど
「僕」の何かは続いていて、それが再び、僕という条件を
新たな知とともに再構成する。



でもそれが何だって言うのだろう。僕は専ら、知でしかない。
そんなの僕の上澄みでしかない。「僕」と言わない時の
「僕」の何かこそが重要なのだ。この、、、。
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