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禁じに近似

猫に見つめられる。その時私が何をしていたかと言えば、何もしていなくて、その目線はきっと何かを訴えていたわけでもないのに、私は何かをしなければならないと感じた。

今日は晴れている。暑苦しくなるのは季節的にはこれからで、今はまだそんなに「生き」苦しくない。だからほんのちょっとだけ、散歩にでも出掛けようと思ったけれど、そう思うだけで妙にくたびれた。猫は曖昧な表情を向ける。猫が私を批判しているわけはないが、どうとでもとれるその表情を、「お前は少し動かないと駄目になるぞ」と恣意的に解釈してしまう私は確かにいる。


「白いケーキ」


頭の悪い言葉が浮かぶ。それはショートケーキを言い表す言葉以外の何ものでもないのに色んな色のケーキを見てきた末に、いま敢えて白を選んだような言い回しになってしまってはいないだろうか?要するにショートケーキが食べたいのだろう。食べたいけれど、食べるには外に出て、歩いて、洋菓子店に行かなければならない。


それは面倒ではないが、めんどうくさい。


面倒が一般的な認識として通用する、容易ではない様だとするなら、一般的に歩いて買いに行くことなど面倒ではない。しかしながら、私という特殊な例にとっては、肉体的な問題より、私に内在する問題…というよりそこに私が内在しているところの問題系によって面倒な行為になるという意味で、つまりは主観的にめんどうくさい。


ゴミを取る。肩についていた紙屑。何故ついていたかは知らない。



多くの事は期待しなくなった。いつの間にやら。いつの間にやらという表現でしか上手く状況を捉えられないような具合に、いつからそうなったか分らない。閾値のように、徐々にそういう傾向になってきたのが、ある時を境にそういう風に判定するしかなくなっていたみたいな感じで、きっとそんな感じで、私は多くの事は期待しなくなった。こうしている間にも猫は移動し、適当に寛いでいる。


多くの事は期待しなくなったとはいえ、期待したいことが全くなくなったわけではない。例えば、この夏は少しでもいいから涼しくなって欲しいなと思うくらいには「マシな未来」を期待していて、しかもそれが早急にそうなって欲しいとかもあまり思っていない。良くも悪くも、この何でもないように見えるプロセスを楽しみながら、これからどうなるかに期待している。


パソコンを起動する。


ネット上にある情報は、ただ眺めていても何も語りかけてこないが、定点観測のような、日課として同じサイトを巡ったりしていると、ぼんやりとだがある種の傾向が見えてくる。正確には見えてくるような気がする。雑多な情報は適度に選別され、選別される中で、ある一般的事実を「推論」させる。それが幾ら偏見に満ち満ちたものでも、格好よく言うとバイアスがかかっていても、何かを考えるための基準になるのは確かだ。時間は掛かったとしても、何も言える事が無い、無言と等価であるなどと言うことはないと信じたい。つまり、何かしらの「知」になるのではないかと思いたいし、そう信じるところがあるから、雑多な情報を眺めるのだろう。まさか「ノイズ」について語っているわけではあるまい。


まあたとえ「ノイズ」だとしても、それならそれで、「ノイズ」なのだという「知」が得られるだろう。結局のところ、「ノイズ」なのか「情報性を持っているもの」なのか、エントロピー的に興味深いテーマに行き着くのだ。


「これをずっと見てて何になるのだろう?」


もし情報性があれば、これをずっと見ていたら、何か自己に加わる情報によって自らにも変化があるだろう。情報性がなければ、自己は全く変わらない。厳密には、ノイズのノイズとしての影響も考えるべきだが、大数の法則か何かで、ノイズはノイズに留まるだろうし、もしそれがノイズと言えども「酷い」ノイズなら、ある意味ノイズは構造化されていて、私に決定的な影響を及ぼす。そうなったらそうなったで、ノイズについて語るのもナンセンスではなくなる。その「酷さ」の原因が何によるものなのかを正しく推論できたなら…。「酷い」のは人為的なものか、それとも無意識的なものか、言語の不完全さによるものなのか、観測者たる私に問題があるのか、様々な次元で問えるけれど、少なくとも正しい付き合い方というのも分ってくる…はず、かな。情報を「見る」「見ない」を同時に試す事は出来ないから、「見る」場合の影響しか私は語れない。だが、「見ない」を選択した人と「見る」を選択した人の違いなど、定式化できるだろうか?



ネットじゃないところで。



そんな区別がこの時代に通用するのかというと甚だ疑問だが、というのもネットを見ていない人がネットを見ている人と情報を交換しないという事が起り得るかと言うことが疑問だからであり、それでも現実的にそういう区別をするのは、きっとネットという媒体で表現できる事が文字情報優先だからとか、多数の中の私という次元で動いている為に振る舞いが異なるとかいうもっともらしい理由で、実際に現実とは少し違う像が見えるときがあるからで、まあそれもひっくるめて現実になっていても、やはりネット上のリアル、ノリが、確かにネット以外のノリとは違う。二つの「ノリ」は侵食し合いそうで、なかなかどうして違っている。


そんなのは当たり前の話だ。大体人間と言うのは家にいる時と外では振る舞いが違うではないか。


なんて、どうでも良いことを言ってみる。いや、どうでもいいというならこういう話すら既にどうでもいい。


兎に角、人間と言うのは、置かれた状況に相応しい振る舞いと言うのを次第に見つける。というか、リアルというのは、置かれた状況において(於いて)そうなるしかないような、事物の有様だからして、条件さえ正しく認識していれば、「ここまで」は許されるとか、「これ以上やったらダメ」とか分る筈で人はそこを飛び越えず、ある型にまで到達する。んでもって、「型」があるから、その「型」が前提されるようになると、少しそれを崩した方法が通用するようになる。「型」がある中でならそれはある効果を発揮するが、「型」が無いところでやれば「奇異」でしかない。文明論を展開するつもりなどちょっとしか無いが、多くの人がある領域に纏まってしまうのだから、情報はそこに集中する。集中して同じところに集まるなら、同じ話題を前提とした、より複雑でよりローカルな、局所的な情報が有益になる。なんでそんなことが、そんな一挙一動が重要なのかと傍から見ると思えるが、同じ認識がある集団の中では、それは確かに興味深い事なのだ。


スラングそして、「語録」が完成し、それを他の領域に適用する。ある意味でそれは、局所的な領域で通用する局所的な推論を他の領域にも当てはめて考えようとする、人間の普遍的なやり方と似て…いなくもない。



そんなこと言われなくたって分っている。定式化したところで後追いでしかないから、価値がない。今見るべきは、起こっている事を追う事だ。と、ここでようやくネットにおける観測行為につながる。今後起こる事について、何か予測を立てることはきっと面白い試みだ。外れるからなおさら面白い。予測を発表する影響によってそうなるのではないだろうけど、そこにはネット上の技術の問題も絡んで来たり、色んな思惑が絡んでくるから描いた通りには行かない。ただ、それでも、多分ネットの情報は蓄積されてゆくという性質をもっているだけに、何かが発掘されるという事態と、よりリアルタイム的な変化に敏感になるという事と、振る舞い辛く、そこで生き辛く、いや、生き苦しくなるなると思われる。だって、最終的にそこに現実的に何かが「ある」と前提して振る舞うのだから、どうあったってリアルになるしかない。ただ、苦しく面倒な分だけ面白味が増すのも事実で、まあ避難地が幾らか立てられる事にはなるだろうけど、現実と同じように群れるのが好きな人は群れるし、得意でない人は、閉じこもる。



と、既に閉じこもりがちの私が言うのも変だが、実際問題として、「ノリ」の中に入ってゆけない私にとっては、ネットで人と付き合うというより、一方的に観測するだけになってしまうというのが事実に近い。とはいえ、一応、来るものを拒まずの姿勢では居る。だが結局、私は無内容なのである。「ノリ」の中の続きを供に生産しようという気力が既にない。絶えず、私個人の問題と向き合うだけだ。



猫は…。というか私は猫とあんまり変わらないのじゃないだろうか?
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