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無内容の

徹底的に無内容。私は確かに無内容にしか見えないものを
語っている。正確には私が用いるところの認識にとっては
無内容にしか見えないものを私は認識し、それについて
私は語ろうとしている。


無内容。その一言に丸め込まれるような、何らかの雑然とした
ものが確かに私がそこにあるところの意識に付属している。


意識する。私を、そしてその雑然としたものを。


私は意識の中にあるその雑然としたものを、私の情緒だとか
私の思考だとか、何らかの情報として扱う。常に私を意識
しているわけではない。私自身が殆ど無内容に見える私に
対して無関心だから、意識は必然的に、私でないものに
スライドしてゆく。私を意識するくらいなら、私でない
ものに惹きつけられていた方がマシだと言わんばかりに、
私は私に対して鈍感になってゆく。


私が鈍感になっているが故に、無内容になってしまうのだろうか?



とはいえ、私について興味など持てやしない。ではあるが、
私が行動するには、「私が」行動したと言い得るには、
私の内部で蟠っているものを、それとして認めて、私
から始めるしかない。



私は『厭』なのである。何がというわけではない。『厭』
だと思ってしまう私自身も『厭』だが、何より、私自身が
『厭』なのである。それでいて、『厭』な自分の方が
よほど人間らしくて、何というか落ち着くのである。



厭な私を私自身が拒絶する。拒絶して、私と厭な部分を
切り離したつもりでも、私はそもそも厭な部分と同居
している事によって私なのである。私が厭な部分と
私の実際の行動を比べる事で、私が私自身を褒められる
のだとしたら、私が心地よく居るには、厭な部分は
捨てられないのである。そういう関係を知っているから、
手放せない厭な部分と共犯関係にある私自身はよほど
悪質である。



実際問題として、いま語ったような私が居るとか
居ないとか、そう云うのは想像の中の話だ。もし
私がそうだったら『厭』だなという話で。



私はやはり無内容である。厭な想像をして、それを
否定できるほどの内容を持っていない。ただ一つだけ
言うならば、確かに無内容よりは、厭なものでも
あった方が楽なのかも知れないという事である。


要するに、私はこの無内容を態々刺激して、
動いているようなものなのである。無内容
それ自体を生きるのは中々に困難だから。けれど
本当に私のあるがままを認めるなら、この無内容
と向き合うしかない。
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1+1=2を科学的に説明せよ

 誰だって知っている基本中の基本。だが、これが数学の世界では非常な難問らしい。でも、これを科学的に説明するって無意味だよね。という事は、無意味な事は科学的には難しいって事かな?無意味な事を考え出すと収拾がつかないのはそういう事なんだろうか。

Re: 1+1=2を科学的に説明せよ

数学科だったのでそういう話はある程度分っていてその話を始めても良いのですが、コメントに対して答えられる事を述べてみます。事実を単に「知っている」というのは理解しているというわけではないという事なのですが、自分が生きてゆく、幸福でいるという事に対して事実を知っているだけで十分な事については納得しようという気持ちが強い人が自然と「何故そうなるのか」を考え始めるという事なのだと思います。


無意味な事は意味があると思う人にとっては意味があるのかも知れませんが、意味がないと思えているならばそれはある意味で「必要ない」という当人の判断であり、「必要がない」ように今の自分があるという事なのかも知れません。


でも、1+1が2にならないと思っている人がいる「としたら」(例えば小さな子供)、説明は必要になります。
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