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ぜんひてい

あれもこれもない、そんな毎日。ある事と言えば、分かり切っていて
言うまでもない事で、言うまでもない事なのに言わなければあるように
見えないというのも落とし穴だろう。


きっかけなど何処にもない。何かをするきっかけなんてものはあり過ぎる
くらいにあり過ぎて、だからこそ取りたてて何を強調するべきなのか
分らなくなって、結局きっかけが無いと思うようになる。


きっかけがないから、きっかけがないと分かったから始めた、というきっかけで
物事を始めても良い。今だって、きっかけはないけど話し始めている。


どうにも、何とも言いようのない事しかない。けれどそれしか話す事はない。
それは話すに値しないという事を知っているが故に、躊躇いがちに、
途切れ途切れに、投げやりに。そんなこんなで私は何を伝えようと
言うのだろう。



結局、何をしても何をしたことにならない。「した何か」についての評価は
宙に浮き、それをした事で、一体何にとって何がどう変わったのかがその
結果についての無知が、見渡せなさが、「した何か」をそれとして
認識させない。私は何をしたのか、単純に言えば、私が認識し
意味付けした中での「何か」でしかない。この視点からでは私がした行為
は私にとってしか意味を為さない。私は動いて、食事をして、喋って
、それだけである。その行為は私から見れば、まさにその通りでしかなく
、それは「何をした」事にはならない。


そう。私は結局、何と戦っているのだろうか?世間?社会?世界?


多分、それすら分からないのだ。私と私の行為を意味づける平面の
不在。評価、基準の不在が、私を分らない何かを基準とする、
ある位置に置き去りにし、私をそこから評価せしめる。例えば
未来。未来にとって私の行為は、私が意味づけようとするものとは
違ったカタチで眺められ、評価されているのだとしたら…なんて
事を考え出すと、私にとっての「今」は何なのだろうと思ってしまう。



今の為の今ではない。けれど今の為の今である。



結論を出せば、私は私が思い描くもののを基準とした評価で
自らの行為を評価している。しかしながら、私は思い描いている
といえるほどはっきり何かを描いているわけではない。


だから何をしても自信がないのだ。「何の為」と言うときの
「何」が、見えているようで見えない。それは見えるものでは
ない。見える事のないものに向かって、人は進んでいる。


「君は何の為に、そうするの?何の為に話すの?」


それが分っていたらきっともっとはきはき喋れるだろう。でも
見えない私には躊躇いがちの喋りが似合っている。




それでも、揺るがないものはある。見えないが、少なくとも見えない
ということが本当の場合は「見えない」という事を素直に認めて、
何の為にそうするのか分からない事を、思いっきり悩んで行う
事である。永遠に見えないと分かったなら、その時は態度を
改めるだろう。けれど、そんな事すらまだ分からないから、私は
探し続けられる。



何の為。そう問う事がナンセンスだとしたら、生そのものが
ナンセンスだろう。けれど、全てが「ナンセンス」となった
世界で、その生がそれでも集う何かがある。それがセンス
なのだとすれば、そのセンスは、問う事によって獲得された
ものではないのか?


「全てがナンセンスだ、じゃあ何をしたらいいのか?」


そう、全てがナンセンスなら、その全てを否定しよう。
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