そうあれる瞬間
知るか否かの体たらくを越えて、わりとまともになりかけているこの頃は、まるでふざけ続けた過去を整理しなければならないと、どっかの誰かに言われているように感じるのだ。どうしてこれがふざけているだろう?いつでも大真面目なのだ。大真面目にふざけているのだ。なんてことは、永遠に理解されないだろうという事を知りつつも、またふざけたことを抜かす木偶の坊に舞い戻る。
近所の河原で、飽くことを知らずに遊んでいる少年を敢えて想像して、そんな風になれたらいいなと想う。そんな風になれるわけがないから夢想するのではないだろうか。連中も、我々もいずれ飽きてしまう。この世界というのは、発破をかけないと面白い方向に動いて行かないし、余裕ぶっこいだ何某かが戯れないと、いつも胸の辺りが平熱で過ぎてしまうのだ。
「平熱で何が悪いんですか」
「おっと、こんなつまらない話を真面目に聞いてしまった残念な人が居るんですね。何処のどいつですか?」
「アンサー、君の独り言なのか、何なのかよく分からない語りに付き合わされていた、友人Aです」
「ああ、なるほど君が友人Aだったのか」
なんて一人二役をやってみたりすることがあるのは、ここだけの秘密だ。つまるところ、言葉というのは相槌があったり突っ込みがあったりするから、スムースに流れてゆくわけで、そういうのがないとなかなかどうして煮詰まる。適度に話題を変えるには、別な意見を持つ人がどうしても必要になるとか、よく分からないけどそういうことだ。だったら世にある書きものは、一体どうやって構成されているのかというと、途中に予備知識みたいなことをふんだんに盛り込んでゆくみたいで、そうやって何とか言葉が捉えている物事の先に読者を誘うのだ。
長い前置きだが、ここから何をしようか、結局そこに還ってくるわけだね。そんな事いわれても、制限はあるが、その中で自由なのだ。何処に出掛けたっていい、空想していたっていい、誰かと会話したっていい。ただ何となく、この世界にあるということが息苦しく思えたりすることはないだろうか?この世界で、この知れた世界で、何かを始める事は自由なのに、始めるきっかけが無けりゃ何にも始まらないっていうのはどういう事だろう。いまこの瞬間、漠然と孤立しているのを感じる。というか、「いま」は、何もしないと決めているのだ。この河原で、ぼんやり思惟に耽りながら、景色を眺めているだけだと決めているのだ。それの何が悪いのだろう。つまらないかも知れないけど、この景色さえ、余分な思惟だけの世界に居る時間こそ、ただ大切にしたい時間なのではないだろうか。
こんな事を考える時がある。小説でも映画でもそうなのだが、一番享受しているのは、特別な出来事ではなく、何かがずっと同じように流れている雰囲気なのではないだろうかと。一番好きなシーンは、流れるように過ぎ去ってしまっている。写真なんかでそのシーンを凝縮したとしても、頭の中では、その時間が流れているのだ。流れている事が繰り返されるのを望んでいるのではないのかも知れない。同じような夢を毎日見る時、決して繰り返される日常を望んでいないのだという事に気付く。繰り返されるのではなく、失われ、忘れつつ、再び取り戻すから、何度も浸り直せる。その何度浸り直しても、尽きる事のない新鮮さを持っている世界の欠片が、少ないけれど何処かにある。そんな欠片をいつも、風景の中に、想像の中に探している。それは雰囲気としては分かっているのだ。けれど、その雰囲気は、単純な情緒ではなく、それが実現される空間が局所的過ぎて、多分見届ける事が出来ないのだ。
そんな
そんな時間を探している。私はそういう時間をこの世界に探していたし、この世界の何処かに見ようとしていた。けれどいつまで経っても分からないのだ。日が暮れようとしている。ここではないのだ。私は、いつもこんな感じだった。「ここではない」、「ここではない」とバカの一つ覚えみたいに言い続け、さまよい歩いても、結局のところここに落ち着いてしまう。私には見えない。見えないからそれが憧れで…。
「出口を探さなくてはいけないのだ」
私は出口のなさを知っている。私が私である以上、その私は私なりの関わり方でしか、世界と関われない。私と幾ら向き合ったところで、所詮、私の知るところに戻るだけなのだ。だからだろう。「誰か」を待ってしまうのは。滅茶苦茶に散らかしていた過去は、私の世界を断片的に広げてくれたけれど、何処にも繋がりはしないのだ。けれど何というか、「出口」というのは一つの夢である。「出口」を見つけて、いつか何処かの誰かの元で、私はきっと、そんな…を語り出す。そういう夢があるから私は生きていられる。
私が、そうあれる瞬間を探しに。
近所の河原で、飽くことを知らずに遊んでいる少年を敢えて想像して、そんな風になれたらいいなと想う。そんな風になれるわけがないから夢想するのではないだろうか。連中も、我々もいずれ飽きてしまう。この世界というのは、発破をかけないと面白い方向に動いて行かないし、余裕ぶっこいだ何某かが戯れないと、いつも胸の辺りが平熱で過ぎてしまうのだ。
「平熱で何が悪いんですか」
「おっと、こんなつまらない話を真面目に聞いてしまった残念な人が居るんですね。何処のどいつですか?」
「アンサー、君の独り言なのか、何なのかよく分からない語りに付き合わされていた、友人Aです」
「ああ、なるほど君が友人Aだったのか」
なんて一人二役をやってみたりすることがあるのは、ここだけの秘密だ。つまるところ、言葉というのは相槌があったり突っ込みがあったりするから、スムースに流れてゆくわけで、そういうのがないとなかなかどうして煮詰まる。適度に話題を変えるには、別な意見を持つ人がどうしても必要になるとか、よく分からないけどそういうことだ。だったら世にある書きものは、一体どうやって構成されているのかというと、途中に予備知識みたいなことをふんだんに盛り込んでゆくみたいで、そうやって何とか言葉が捉えている物事の先に読者を誘うのだ。
長い前置きだが、ここから何をしようか、結局そこに還ってくるわけだね。そんな事いわれても、制限はあるが、その中で自由なのだ。何処に出掛けたっていい、空想していたっていい、誰かと会話したっていい。ただ何となく、この世界にあるということが息苦しく思えたりすることはないだろうか?この世界で、この知れた世界で、何かを始める事は自由なのに、始めるきっかけが無けりゃ何にも始まらないっていうのはどういう事だろう。いまこの瞬間、漠然と孤立しているのを感じる。というか、「いま」は、何もしないと決めているのだ。この河原で、ぼんやり思惟に耽りながら、景色を眺めているだけだと決めているのだ。それの何が悪いのだろう。つまらないかも知れないけど、この景色さえ、余分な思惟だけの世界に居る時間こそ、ただ大切にしたい時間なのではないだろうか。
こんな事を考える時がある。小説でも映画でもそうなのだが、一番享受しているのは、特別な出来事ではなく、何かがずっと同じように流れている雰囲気なのではないだろうかと。一番好きなシーンは、流れるように過ぎ去ってしまっている。写真なんかでそのシーンを凝縮したとしても、頭の中では、その時間が流れているのだ。流れている事が繰り返されるのを望んでいるのではないのかも知れない。同じような夢を毎日見る時、決して繰り返される日常を望んでいないのだという事に気付く。繰り返されるのではなく、失われ、忘れつつ、再び取り戻すから、何度も浸り直せる。その何度浸り直しても、尽きる事のない新鮮さを持っている世界の欠片が、少ないけれど何処かにある。そんな欠片をいつも、風景の中に、想像の中に探している。それは雰囲気としては分かっているのだ。けれど、その雰囲気は、単純な情緒ではなく、それが実現される空間が局所的過ぎて、多分見届ける事が出来ないのだ。
そんな
そんな時間を探している。私はそういう時間をこの世界に探していたし、この世界の何処かに見ようとしていた。けれどいつまで経っても分からないのだ。日が暮れようとしている。ここではないのだ。私は、いつもこんな感じだった。「ここではない」、「ここではない」とバカの一つ覚えみたいに言い続け、さまよい歩いても、結局のところここに落ち着いてしまう。私には見えない。見えないからそれが憧れで…。
「出口を探さなくてはいけないのだ」
私は出口のなさを知っている。私が私である以上、その私は私なりの関わり方でしか、世界と関われない。私と幾ら向き合ったところで、所詮、私の知るところに戻るだけなのだ。だからだろう。「誰か」を待ってしまうのは。滅茶苦茶に散らかしていた過去は、私の世界を断片的に広げてくれたけれど、何処にも繋がりはしないのだ。けれど何というか、「出口」というのは一つの夢である。「出口」を見つけて、いつか何処かの誰かの元で、私はきっと、そんな…を語り出す。そういう夢があるから私は生きていられる。
私が、そうあれる瞬間を探しに。
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