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あんばらんす

一日(ついたち)午前、天気、曇がち。月一で開かれるイベントに今日はどうやら間に合わない。寝坊したわけでも、電車に乗りそびれたわけでもない。ただ、会場までの道程の途中で、なんだか休みたくなったのだ。

私は見た目ほど素直じゃない。今朝鏡で確認した顔には、本来顕れるべき憂いの陰が見えなかった。その後、二階に上がりハンガーに洗い終えたばかりの服を引っ掛ける。何の気なしに買った安物のTシャツにプリントされていた『I Love IT』と陽気な模様が、妙に気になった。こんな物を着ている自分は、浮いていたかも知れない。


自販機でホットココアを買ってから、再び近くに設置されているベンチに腰を下ろす。まだ取り出したばかりだから、両手にすっぽりと包み込まれてしまう程の丈の内側には、熱いものが十分に蓄えらている。私の冷たい手は外気に当てられて『もう、感覚が分からない』と泣き言を言う。それに対して秘められた熱が『まだ大丈夫』と勇気づける。もう一度、心を奮い立たせようとしたが、あの切れ端に触れた瞬間、握り潰してしまいそうな衝動が再現された。


〈冷静になれ。〉


それは冷静。だけど、心を通わせない冷静さ。拒絶と願望が混ざりあった中身のどちらとも関わらないでいる為に、自分から容器の底に穴を空けて、空っぽにする事だ。私の知り得る限りのどんな特殊なフィルターを用いても、濾過は不可能だ。そのままでは。


冷静になった私には、結局それより先の判断が出来ない。唯一の判断材料は、意を決して家を出て、自分にとっての意味を見出だそうと励まし続けた限界が、つまり均衡が、このベンチだったという事実なのである。否定ではない。拒絶なのだ。だからこそ、打ち消しあってしまう。否定を取り除いても、そこで歩みが止まってしまう。


『貴方の願う通りに、ただ正直に生きれば良いの』


誰かは言った。


「これが私の、正直な気持ちです。どっちを選んだとしても、私は後悔するでしょう。どちらにも、それなりの未来が待っています」


不自然であっても、語られていない側の真実がある。私なら拒絶に意味を持たせる事が出来る。いや、持たせようと人一倍努力するだろう。二度と戻って来れなくなる事もあるかも知れない。だけど、私にはこれが、そういう類いのものには見えない。私の置かれた立場を、ないがしろにしたまま、強がりを言い続けるだけでは、真実は見えてこない。


覚ますべき夢は、一体どっちなのだろう。どちらも夢で、現実は違うところにあるのではないのか。それこそ、私が知らないとか、知っているとか、そういう事さえも言えない、それも分からない、そして永久に続くかどうかも分からない、それさえも分からない。



二つの夢の間で、揺れ続ける。その間にも、現実は今なすべき選択を迫ってくる。


「私では選べない!!選べるはずがないじゃないか!!」


「じゃあ、アタシが選んであげるよ。お兄さん」

「…!?」

「お兄さん、何か迷っているみたいだからアタシに話してみて、そしたらアタシが選んだげる」


知らぬ間にベンチの隣に座っていた少女は、ニッコリとした表情で私に微笑みかける。


「君は誰だ?何を言っているんだ?何故私の事を君のような…」


「年端もいかないガキに相談しなきゃならないって?でもお兄さん、選ばないで後悔するよりは選んで後悔した方が良いと思うよ。それはアタシにでも分る」


「君は知らないんだ。私は今重要な地点にいる。邪魔をしないでくれ!」


「でもさ、お兄さん。世の中って言うのは、迷っている人に色んなもの押し付けて、巡り巡ってアタシみたいな小娘に自分の人生決められちゃうかも知れないんだよ?」


「だから一人にしてくれって言っているんだよ!!」


「でも、このベンチはお兄さんだけが座るものじゃない。だからアタシが座っても良い。そんな風に予期せぬ出来事っていうのは、いつでも起り得るんだよ」


「…仮に君が予期せぬ人物だったとしても、私の人生には関係のない人だ」


「ところがどっこい。これから関係してくるんだな」


「何故そんな事が分る」


「だって、お兄さんがアタシが初めて関わろうとした人だから」


「…どういう事だ。」


「そのまんまの意味。だってアタシさ、自分から何かした事って無かったんだよね。いつも人に言われたこと、そのままやってた。で気が付いたら、自分から何もしなくなっちゃってて、自分に絶望して、で何でもいいからやろうと思ったけど、何も浮かばなくてここを偶然通りかかったら、お兄さんになら何かしてあげられそうだって思ったんだよね」


「それは君の人生の事だろ?私には関係ない。お節介だ」


「お節介でもやるよ。あとですっごい後悔するかも知れないけど、アタシがやろうと思った事だもん。これは譲れないよ」


「君には分るわけない。才能もそこそこなのにミュージシャンになろうとする愚かな夢と、楽しくはないけれど、ただ何かの役に立っている事を十分に感じれるこの恵まれた仕事を続ける事が、釣り合ってしまう事があるなんてことがね…」


「じゃあこうしよう。アタシがお兄さんの選ばなかった方の夢を追いかけてみるっていうのは?」


私は少女を睨みつけた。冗談を言っているような表情だったが、少女の目は本気である。


「それは君の夢じゃないだろう。音楽というのは何よりも情熱が必要なんだ、生半可な気持ちでやっちゃ駄目なんだ」


「な~んだ。もう決まってるんじゃん。選ぶ方」


「あ…」


「お兄さんのその情熱、受け取ったよ。じゃあ、頑張ってね。アタシも頑張るから」


「頑張るって?って、おい!」


少女はどこかに駆け出し、もう姿は見えなくなっていた。「ふっ」と声が漏れて、私は何となく晴れているようにも見える空を見上げていた。


「『会場に遅れますって』電話入れとくか…」



一か月後、イベント会場の一角のライブイベントに売出し中のガールズロックバンドが登場して、派手なメイクをしているヴォーカルの子の魂を揺さぶるような熱唱に、私は久しぶりに感動した。でもその子が偶然にもあの『I Love IT』と陽気な模様がプリントしてあるTシャツを着ていて、


「似合わあねぇな」


と私は呟いた。
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