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いなかのまじゅつ

『カントリーロード』を歩いている。有名な歌と違うのは、それがそんじょそこらの
ただの日本の田舎道だという事である。良いのか悪いのか分からないが、歩いていても
誰とも出会わない。色が褪せ、少し削れているアスファルトはずっと向こうまで続いて
ゆきそうなのに、意外と坂が多くて視界は遮られてしまう。何もないようでありながら、
農村特有の田んぼだらけの地帯は目には優しそうな色をしているけれど、単調過ぎて
だんだん見ようという意思を失わせる。結果的に、そこにあるのに何もないように思わ
せてしまう田舎の魔術。



地元は大体こんな感じだ。ここで起こる事はそんなにない。『ない』と言っても目まぐ
るしく動いている場所に比べたらというだけで、これも田舎の魔術なのか、毎日すべき
ことがあってそこそこ忙しいのに、印象の中では大したことが起こっていない事に
なってしまうのだ。



今日は時間ができたから特に何も考えないまま散歩をする。



都会に行ったら重宝がられるような向日葵が一面に咲き誇っている畑は、周りの景色
と比べて特に目立っているというわけではない。ごく自然に、当たり前にそれを見届け
通り過ぎた頃に少し厚めの雲が太陽を覆って、一帯が暗く陰る。風も吹いてちょっとだけ
涼しくなるが、そんな時間も長くは続かない。歩いているうちに再び直射日光に曝され
始め、次第に額に汗が浮かび上がってくる。



猛烈にジュースを飲みたい気分になるが、田舎ゆえ文明の象徴である自販機など数が知れ
ていて、残念なことに自分の住んでいる場所の付近は恩恵に与れていない。だが水がない
というわけではない。飲めはしないが田んぼの脇を流れる農業用水は透き通っていて、
水が流れてゆく音は清涼感がないわけではない。それにこの近くには川がある。なかなか
立派な河川らしく、子供の頃には水遊びをしていた事もある。



とはいえ、この歳になってこんな時間に川の辺りをうろうろしていたら人は見当たらないが
それなりに不審者に思われそうな気がする。ここにもまた人が『いない』のではなく、少し
はいるかも知れないと考えなければならないという事情がある。まあ居なかったとしても、
特に理由はないが面倒な事をしようとは思わないから、あまり影響はないのかも知れないが。




こんな日には何にも起こる筈がない。別に何かが起こって欲しいとも思っていない。言うな
れば、『今日も何も起こらなかった』という当たり前の事を毎日確認しているようなもの
なのだろう。ここではない場所を意識させられることは多いし、ここではない場所と何処か
が何らかの意味で関係していて、経済という観点からは確かに繋がっているのだろうけれど
、ここは当たり前のようにここにあり得る事しか起こらない。ここで感じた事、ここで見て
いるもの、情報、そういうものは『経験的にあり得そうな事』という概念を育ててゆく。そ
れがここでの日常を作り上げていて、たぶんここに住んでいる他の人も同じような概念をも
っているのだろう。別の場所で出来る事も、ここでやろうと思ったら一苦労だし、逆も
あり得る。




ここだから出来る事、ここだから容易に見れるもの。




空を見上げる。山の方を見つめる。一つ一つ確認してゆけば紛れもなく圧倒的に「ここにある」
のだという事実に向かわざるを得ない。だが古の偉大な俳人たちは、大して変わらなかったで
あろうこの光景を見て、人生における真実を切り取ったような句を残していったという事を
知っている。



何となく『癪だな』と思う。自分はまだまだ半端もののような感覚が抜けないけれど、それでも
確かに知っている事がある。でもそれは「はっ」とするような事ではない。咲き誇る向日葵を
本当に何でもないものとして見ている視点で言っているからだろう。



そう、向日葵は咲くのである。夏の幻でも何でもなく、当たり前のように。



「『咲き誇る 向日葵夏の 田舎道』」



まあ…。なんだろう。誰かに聞かれたらちょっと恥ずかしい俳句だな。
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